DJ Quik
 常に影響力のあるアーティストでいるためにはリスクを負わなければならない、DJ QUIKはこのことを十分に理解している。だからこそコンプトン出身でギャングスタ・ラップの頂点を極めたMC/ソングライター/プロデューサーのDJ QUIKは5枚目のアルバム『BALANCE & OPTIONS』で新たな境地を切り開いている。このアルバムで彼のR&B的なサウンド・プロダクションはパーティのりなゲットー・ジャムの要素を失わないままにさらに円熟している。

 「このアルバムは人生についてで、人生とはバランスさ」と彼は説明する。「なんでもやり過ぎれば痛い目に会うさ。いいことでも悪いことでも。節度をもつってことだよ。陰と陽、それが人生さ。」

 彼にとって人生のバランスをとるということは、ギャングスタ・ラップ以外のテーマにも挑戦するということ。結婚して3人の子供を持ったばかりの彼だが、ジェームス・デバージと組んで”THA DIVORSE SONG”(離婚の歌)という曲を作った。これについて彼は「マーヴィン・ゲイの『HERE MY DEAR』に影響を受けたんだ。すごいディープなアルバムだからね」と語る。「この”THA DIVORSE SONG”のなかで主人公は正気を求めて闘うんだ」と説明、彼らはマーヴィン・ゲイが離婚の過程や示談などについて歌っている痛みをとりこんだのである。この”THA DIVORSE SONG”をレコーディングしたのは彼らの経験をさらけだすことで同様に苦しむひとたちの助けになると思ったからで、QUIKいわく「音楽には人々を落ち着かせる力があるんだ」とのことで、彼は1991年のデビュー・アルバム『QUIK IS THE NAME』以来ギャングスタ・ラップとして自分が分類されることを痛感していて、内省的な曲を作りたかったそうだ。「自分の仲間やファンをリスペクトしているなら、きちんと成長していくのが彼らに対しての義務だと思う。”TONITE’S”や”BLACK PUSSY”みたいな曲を一晩中やってるのは簡単だけど退屈だよ。もうそんな風にパーティしたりしないからさ。今は家族とパーティするんだ。」QUIKはそう語る。

 昔からの仲間であるシュガ・フリーやAMG、ハイCなどと共演するかたわら、QUIKは新たな試みとしてイースト・コーストの大物エリック・サーモンやKAMと”U AIN’T FRESH”で共演したり、P-ファンク・ヒップ・ホップ・グループ、デジタル・アンダーグラウンドのショックGとマネーBを”DO WHUTCHA WANT”でゲストに迎えたりしており。”SEXUALITY”などでも、いままでとは違う女性への姿勢を見せている。しかし彼が成長したのはそれだけではない。彼のプロデューサーとしての能力もネクスト・レベルへと達しており、彼自身も「もしヒップ・ホップのリーダーたちがいままでずっと新しいことに挑戦しないで、ただ思うがままにやっていたら、何も進歩はなかったはずさ」と強調する。

 そうしたQUIKのリーダーシップと才能が発揮されたこのアルバムは今年もっとも影響力のあるアルバムのひとつになるに違いない。ファースト・シングル”PICTH IN ON A PARTY”、今は亡きイージーEの”EAZIER SAID THAN DONE”を引用した”QUIKER SAID THAN DUNN”、同様に他界したZAPPのロジャー・トラウトマンを称えた”ROGER’S GROOVE”、さらには元トニ・トニ・トニで現在は新グループ、ルーシー・パールで活動するラファエル・サーディクを迎え、マイケル・ジャクソンやアース・ウィンド&ファイアーなどの作品でオーケストラを指揮した大御所ベンジャミン・ライトによる28人編成のオーケストラと共演した”WELL”(ちなみにこの曲はマイケルが『BAD』や『DANGEROUS』をレコーディングしたスタジオでレコーディングされた)など強力な楽曲がめじろ押しだ。このオーケストラを起用したことについてQUIKは「キーボードのストリングスではなくて、本物のオーケストラをつかうというのは他のヒップ・ホップ・アーティストもやってるから、本物のオーケストラに加えてアレンジができる適格な人物が欲しかったのさ」と語っている。

 DJ QUIKのデビュー・アルバム『QUIK’S THE NAME』は、MCハマーやLLクールJがチャートを席巻していた当時にNWAやCMWなどのグループとともにコンプトンをラップのメッカとして有名にした。翌年にリリースされたセカンド・アルバム『WAY2 FONKY』では米ヒップ・ホップ誌『THE SOURCE』の表紙を飾るまでの人気となり、1995年のアルバム『SAFE + SOUND』はTLCやメアリーJブライジ、ボーイズIIメンなどの強豪をひきずりおろして全米R&Bアルバムチャートで初登場1位という快挙を成し遂げた。そして1998年にリリースされた『RHYTHM-AL-ISM』では彼がギャングスタ・ラップから抜け出そうとしている姿勢が明確にされ”HAND IN HAND”などのR&Bフレイバーなヒットが生まれた。

 自らの作品だけでなく、彼はプロデューサーとしても2パックやラファエル・サーディク、デボラ・コックスやR・ケリーなどの作品に参加、彼が関ったアルバムの総売上は3,000万枚を超えている。

 DJ QUIKは自分の新しい方向性に自信をもっており、「精神的にもクリエイティブな面でもこのアルバムのためにできるだけやったよ。プロデュースの面でも最終的に誇りに思える作品に仕上がったし後悔はまったくないね」と自信満々に語る。