シャルル・ミュンシュ(指揮)ボストン交響楽団
(1891年9月26日、仏ストラスブール生~1968年11月6日、米ヴァージニア州リッチモンド没)

 20世紀最大の名指揮者の一人。ストラスブールの音楽一家に生まれ、同地の音楽院で父からヴァイオリンを学ぶ。パリではリュシアン・カペーに、ベルリンではカール・フレッシュに師事している。第1次大戦の混乱の後、ストラスブールで音楽院の教授およびオーケストラのコンサートマスターとして活動をはじめ、1926年には名門ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に招かれ、フルトヴェングラーおよびブルーノ・ワルターのもとでコンサートマスターに就任。

 ナチスの台頭に伴い、1932年にはパリに移り、自費でオーケストラをやとって指揮者としてデビュー。その後、パリ・フィルハーモニー協会管弦楽団首席指揮者、エコール・ノルマル教授、国際現代音楽協会指揮者、パリ音楽院管弦楽団首席指揮者を歴任、第2次大戦中もフランスに留まってレジスタンス活動を支援した。

 1946年にはボストン交響楽団を指揮してアメリカ・デビューを果たし、欧米各地のオーケストラへ積極的な客演活動を開始した。

 ミュンシュが前任者クーセヴィツキーを引き継いでボストン響の音楽監督となったのは1949年のこと。ピエール・モントゥーが確立したフランス式の演奏様式の伝統を継承し、ボストン響をフランス音楽の演奏にかけては類のないアンサンブルに仕立て上げた。その一方で、ドイツ音楽の演奏においても本領を発揮し、RCAにはベートーヴェンからワーグナーにいたるドイツ音楽の本流の作品の録音が数多く残されている。同時代の作曲家に作品を委嘱するというボストン響の伝統も継承し、フランス時代から親しかったプーランク、オネゲル、イベールだけでなく、例えばボストン響75周年に際しては、バーンスタイン、デュティユー、マルティヌー、セッションズ、W.シューマンに新作交響曲を依頼している。チャーミングで気取らないミュンシュは聴衆からも(特にリハーサル嫌いな点は)楽員からも愛され、1回1回の演奏会が即興性に溢れ特別な体験となった。音楽監督の地位を離れる1961-1962年シーズンまで、1400回以上(1シーズン平均125回)の演奏会を指揮し、1951年からはタングルウッド音楽祭にも毎夏登場した。ミュンシュ時代に、初の海外公演(1960年の極東への演奏旅行をふくむ)が実施され、青少年向けのコンサートも開始されている。

 ボストン響を離れてからは故国フランスに戻り、欧米各地のオーケストラに客演を重ねた。1967年には、パリ管弦楽団の創設に関わり大きな成功を収めたが、翌年の同管とのアメリカ・ツアーの途上、リッチモンドで死去した。