ボブ・ディランは何故絵を描くのか――ディラン自ら語る!
Bob Dylan
In His Own Words
ボブ・ディランが自らアートについて語る!
11月5日からロンドンのハルシオン・ギャラリーで開催されているボブ・ディラン絵画展「The Beaten Path」。ハルシオン・ギャラリの公式サイトでディラン自身がアートについて語っている文章を寄稿しています。
http://bobdylan.halcyongallery.com/dylans-words/
下記翻訳しましたので、是非ご一読を!
In His Own Words: Why Bob Dylan Paints
ボブ・ディランは何故絵を描くのか
――本人の言葉による説明
1974年、私はザ・バンドと共演した。彼らとは何度も共演したが、この時は確か8年ぶりだった。私たちはシカゴのホッケー場にいた。多分18,000人ほどの観客がいた。私たちのショウが沢山の混乱、騒動、怒りを引き起こしたため、ザ・バンドとは1966年以来公の場では演奏していなかった。今、私たちはシカゴでまた初めからやり直している。何が起こるかは予測知る由もなかった。私たちはコンサートの終わりまでに25~30曲を演奏し、ステージから観客側を見渡していた。客席は薄暗くなっていた。突然1人がマッチに火を点すと、別の1人もマッチに火を点した。間もなくマッチの火の海がアリーナのあちこちにできた。その後数秒のうちに、アリーナ全体が炎に包まれたかのように見え、アリーナにいた全員がマッチを擦ってその場所を燃やし尽くすかの勢いだった。ザ・バンドと私は誰も焼け死にたくなかったので、ステージから一番近い出口を探した。何も変わっていなかったように感じられた。昔一緒に回ったツアーの反応が極端に感じられたとしても、これは大惨事になる可能性があった。ステージ上の面々は1人残らず、今回こそしくじってしまったと考えた。ファンたちがアリーナを燃やしてしまうだろうと思ったのだ。私たちは明らかに間違っていた。私たちは観客たちの反応を誤解してしまったのだ。私たちに対する非難に思えたものは、実は大いなる肯定のジェスチャーだったのだ。ものは見かけによらないことがあるものだ。
この一連の絵画も目的は、私にも他の誰にも誤解されることのない絵を描くことだった。ハルシオン・ギャラリーから展示会用にアメリカの風景を描く話を持ちかけられたとき、彼らは1回持ちかけるだけでよかった。説明を少々してもらった私はその話を歓迎し、着手した。これらの作品に共通するテーマは、アメリカの風景と関係がある。国を縦横に移動しながら、あくまで自分の見え方による景色である。メインストリームからは距離を保ち、自由民のスタイルで来た道を戻る。私は、未来への鍵は過去の面影にあると信じている。現在形の中に自分のアイデンティティを認められるようになるには、自分自身の時代のイディオムを極めなければならない。自分の過去は自分の生まれた日に始まる。それを見過ごすことは、本当の自分に目をつぶってしまうことなのだ。
私の意図はものごとをシンプルに保ち、外に見えるものだけを取り上げるということだった。これらの絵はぎりぎりまでリアリズムを表現している。古風で、大半は静止しているものの、その外観は震えている。現代世界とは矛盾しているのだ。しかしながら、それが私のなりわいだ。サンフランシスコのチャイナタウンは、大企業の窓のない建物からほんの2ブロックほどしか離れていないところにある。しかしこれらの冷たく巨大な建造物は、私が見る世界、あるいは私が見たり、その一部になったり、入り込んだりすることを選ぶ世界の中では何の意味も持たない。コーニー・アイランド(注:ブルックリンの外れにある観光地)のホットドッグ・スタンドから半ブロック先を見やれば、空には高層ビルがいくつも聳えている。私はそれも見ないことを選ぶ。道路を進むと、『林の中にある山小屋』からハイウェイを渡ったところには手入れの行き届いたゴルフコースがある。しかしそれも、私に語りかけてくる、一見何の価値もないように思われる掘っ立て小屋と比べれば、殆ど何の意味もなさない。『アラバマ・サイド・ショー』はあらゆる方向を木々に囲まれている。サイド・ショー(大道芸)は空き地の中でやっており、そこには泥道を辿って行く。私はどこまでも続く林の代わりに、サイド・ショーを描く事を選んだ。他にもこれが真実となる作品が数え切れないほどある。
すべての図像は判意識的に使用されている。私のイメージ選びは、それらが私にとって持つ意味に基づいており、繰り返すイメージの中にそのパターンを見ることができる。道路、掘っ立て小屋、桟橋、自動車、街路、バイユー(入り江などの湿地帯)、鉄道の線路、橋、モーテル、トラック・ストップ(長距離トラックの給油・休憩用施設)、送電線、農家の庭、映画館の看板、教会、看板や標識などなど…すべてがある種の構造的価値を確立している。目的はシンプルで、非実験的かつ非探索的なものといえよう。
これらの作品の中には、ディテールが非常に複雑なものもあれば、あまり多くを求めてこないものもある…私の手が、自分の目が知覚したものを再現できなかったこともあった。そこで私はカメラ・オブスクラのメソッドに向かった。カメラ・オブスクラとは1600年代に発明された原始的なカメラで、イメージを逆さに投影し、画家はそれをもとに作品を描くことができた。これは本物のカメラだったが、イメージを印刷することはできなかった。見るか書き込むかしかできなかったのだ。カラヴァッジョは自作の絵画のほぼすべてにこれを使用していた。ファン・エイクやフェルメールもそうだった。最近はそこまで骨を折る必要もない。本物のカメラを使用すればよいのだ。私は中古のニコンD3300 AF-Pに58-mm 0.43xの広角レンズを取り付けることにより、『ダウンタウン・バンク』、『カッツ』、『ネイサンズ』、『ラス&ドーターズ』、『ロイズ』、『ブルー・ライン』といったかなり多くの絵画に思い通りの効果を手に入れることができた。それがうまくいかなかったときは古いガラクタ店で見つけたRCA製24x 20インチテレビ用のプレキシガラス製凸状スクリーンを通して世界を覗いた。アリゾナのカリー・ロードでは古映画のフレームを使用したが、他にもいくつかその手法を使用した絵がある。ストレートに描いたものも同じ数だけある。『トパンガ・ランチ』、『アイス・クリーム・ファクトリー』、『トラック・ストップス』、『フラット・トップ・マウンテン・ダイナー』、そして『デル・リオ・カンティーナ』。特定の修正レンズを使用したメソッドは、効果を十分に発揮するために使用された。その他多くの場合、私が必要としたのは直定規、コンパス、そしてT定規をその時の状況に応じて使用し、伝統を捨てることも、あらゆる慣習や審美的原理に固執することもしなかった。
ここで使われている水彩絵の具やアクリル絵の具は敢えて感情を殆どあるいは全く表現していないが、私に言わせれば、それらは必ずしも厳しい感情を表現している訳ではない。現実やイメージを理想化させることなく、あるがままの姿で表現するための試みだったのだ。一般化した普遍的で特定しやすい物体に取り組むことにより、安定性を生み出す作品を作ることが目的だった。その過程全体を通じて、生と死のシーン自体を描写しようとする試みがある(『アイス・クリーム・シャック』、『アーケイド』、『スレッテニング・スカイズ』)。ダ・ヴィンチはぼやけた絵画を描く。線は見えなくとも、様々な色をした雲が互いに溶け込んでいく。反対にモンドリアンやゴッホは厳格な線が空間の容積を決めている。その中間のどこかに位置するのがカンディンスキーやルオーだろう。これらの絵画は恐らくこのカテゴリーに当てはまる。
ここでは作品を非人格化する試みがなされた。幻想を削ぎ落としたのだ。作品はすべて何の変哲もない専用の環境に、合理的に定められたスペースの範囲内に配置されている。ピントを合わせる箇所は重要であり、時には珍しい場所に合わせられている。背景と全景は簡単に定義づけることができない。『アミューズメント・パーク・アリーウェイ』では、ピントが背景の観覧車に合わせられている。前景ではオレンジ色のシボレーのトラックが中心にあるかも知れないが、それが焦点ではないのだ。『モーニング・イン・ピッツバーグ』の場合、ピントは前景にある大きな倉庫ではなく、背景にある橋に合わせられている。『フラット・トップ・ダイナー』と同様、ピントが実際に緑の木々に置かれているかも知れない。私は数学的体系を使用し、2次元的なイメージを作り出そうとした。時には前景と背景が合流する。メインにあるのは必ず自然風景である。これらは込み入った構図ではない。基本的な構造を使用し、感情や考えを表現している。完璧な均衡とロジックが、感情の代わりに存在するのだ。認識できるものを強調する美しさ、線、様式、形、そして風合いのありのままの姿が、自然風景が主な特徴となるハーモニーを生み出す。
私は伝統的な題材を取り上げるという制約を自分に課し、物事を浅くまたはけばけばしいものとしてとらえないようにした。シンプルなホットドッグの屋台は伝統的な特徴を持ち得るものであり、私はそういうものだととらえている(『ドーナツ・ショップ』、『ハイ・ワイヤー』)。ホイップラッシュ・カーヴ(注:アール・ヌーヴォー様式のモチーフ)、フライング・バットレス(注:ゴシック建築の特徴)、尖塔、アーチ、そしてウェーブ模様。それらはすべてそこにあり、あらゆる時代を反映させている。劇的な、または芝居じみた照明効果から敢えて距離をおき、自然主義を前面に出しているのだ。
絵によっては、反射する光の明るさが、明らかな筆の運びによって前面に出されていることもある。時には特定の場所に当たる日の光が影の部分と深いコントラストを成すこともある(『サンセット・オン・ザ・プレーリー』、『スレットニング・スカイズ』)。歪曲された遠近感や人口の光を避けるようにはしたが、時には避けようがなかった。エキスパートの画家は色のセオリーの達人であり、マーク・ロスコの絵の如く色彩の値の複雑なシステムを用いることにより、白を黒へと姿を変えさせることができる。しかし『ザ・ビートゥン・パス』は色における探索が反映されており、時にはあまりはっきりしない色や、あまり正確でない輪郭を用いている。また、モノクロへと傾いていくときもある(『オイル・リガーズ・シャック』、『トワイライト・アフター・ダスク』)。
流れるような曲線はもうひとつの視覚的な手段となり、風景画の中で遠い距離を示唆する。建築そのものは常に重要なアイデアやインスピレーションの源となるが、『ザ・ビートゥン・パス』は、可視界におけるものごとのとらえ方という伝統的な知覚のメソッドに立ち戻ろうとしており、コントラスト、場所、隔離、収束を使用することにより、3次元を3次元へと変換する。
この絵画集にサウンドトラックがあるとすれば、ピーティー・ウィートストローの作品をある箇所に、チャーリー・パーカーを別の箇所に、クリフォード・ブラウン、ブラインド・レモン、もしかしたらギター・スリムもあり得ると言えよう。彼らの曲を聴くと心がずっと広くなる。そうあるべきなのだ。間違いなく。
ここにはマスメディア、商業芸術、セレブリティ、消費者、製品のパッケージング、看板、続き漫画、雑誌広告といった消費者文化や大衆文化を退けるという意図的な試みがあった。『ザ・ビートゥン・パス』の作品は、消費者文化の日常的なイメージからの様々な題材を象徴している。これらの絵画がジークムント・フロイトの著書にインスピレーションを受けただとか、夢やファンタジーの世界の中で生まれる心理的なイメージ、宗教的な神秘思想、あるいは曖昧な題材に基づいていることを示唆するものは何もない。どの絵画をとってみても、鑑賞者はそれが実在する物体なのか妄想の産物なのかを考える必要はない。もし鑑賞者がその絵に描かれた景色が実在する場所を訪れることがあれば、彼らはまったく同じ景色を見ることになるだろう。それこそが私たちをひとつにするのだ。
●ギャラリーの中を3D/VRで体験できる!
<Take a Virtual Tour of Bob Dylan’s London Art Exhibit>
http://bobdylan.halcyongallery.com/exhibition-vr/
●HALCYON GALLERY
The Beaten Path
Nov 5 - Dec 11
144-146 New Bond Street
London, W1S 2PF
E: [email protected]
T: +44(0)20 7100 7144
Opening Hours:
Monday-Saturday 10am-6pm
Sunday 11am-5pm