ビリー・ジョエル
 ‘70年代~、’80年代、そして‘90年代と世代を越え、常にリアル・タイムで我々に歌い続けてくれるビリー・ジョエル。そしてピアノ・マン40周年、2014年を迎えた今、ビリー・ジョエルの名曲は時代を超えて生き続ける。

 ビリー・ジョエルは、1949年5月9日N.Y.はブロンクスに生まれる。本名WILLIAM JOSEPH MARTIN JOEL。生まれて間もなく家族と共にロング・アイランドに移住した彼は、3才からクラシック・ピアノのレッスンを受け始めるが、エルヴィス・プレスリーを知りフィル・スペクターのサウンドに影響を受けると、その音楽的思考は次第にロックン・ロール、ソウル、R&Bへとその幅を拡げてゆく。当時エルヴィス、レイ・チャールズ、ジェイムス・ブラウン、オーティス・レディング、ロネッツ、サム&デイヴ等を聴いていたビリーはビートルズの出現により、自らもロック・アーティストとなる事を決意し、地元ロング・アイランドのクラブで、最初はピアノ弾きとして、そのキャリアをスタートさせる。


[1968−1970]

 プロのレコーディング・アーティストとしてのデビューは、1968年であった。THE HASSLESというバンドでバンド名と同名のアルバムを(United Artistsレーベル)からリリース。翌年セカンド・アルバム「HOUR OF THE WOLF」を発表後、このバンドは解散するのだが、間もなくハッスルズのメンバー、ジョン・スモールと二人でATTILAを結成。1970年にはEPICレーベルからアルバム「ATTILA」を発表している。だがこれも全て売れず、生計をたてる為、この頃ビリーは評論家としての仕事もこなしていたという。


[1971−1976]

 しかしビリーのロック・スターへの夢は消える訳もなく、ファミリー・プロダクションとのソロとしての契約にこぎつけ、1971年事実上のソロ・デビュー・アルバムとなる「コールド・スプリング・ハーバー」を発表。同時にバンドを率いてのプロモーショナル・ツアーを開始するが、契約上のトラブルで中止。数々のプロダクションとのゴタゴタから逃れ精神的なリフレッシュの為、ビリーは西海岸へ向かい、ノース・ハリウッドに居を構え、ビリー・マーティンの名でピアノ・バーに出演、ピアノの弾き語りを行うが、間もなく真剣に再スタートを切るべく、曲作りの為マリブ山中の一軒家にこもる。そしてCBSと契約し、1973年「ピアノ・マン」で改めてデビュー。この「ピアノ・マン」が50万枚を越すゴールド・レコードとなりキャッシュ・ボックス誌での新人賞を獲得。ここからビリー・ジョエルは“ピアノ・マン”のニックネームで呼ばれる様になる。

 このヒットにより成功への足がかりを掴んだビリーは前作と同様、プロデューサーにマイケル・スチュワートを起用し、3枚目のソロ・アルバム「ストリート・ライフ・セレナーデ」を翌1974年発表した。この後、新たな決意とともにビリーはN.Y.へもどる。1976年ビリーはセッション・ミュージシャンではなく初めて、自分の仲間と呼べるミュージシャンとレコーディングを行い、自らのプロデュースにより「ニューヨーク物語」を発表。


[1977−1985]

 翌1977年には念願のフィル・ラモーンをプロデューサーに迎え「ストレンジャー」を完成、発表。一気にスター街道を走り出すことになる。このアルバムに収録した“素顔のままで”は、翌年1978年の第21回グラミー賞に於いてRecord Of The Year(最優秀レコード)とSong Of The Year(最優秀楽曲賞)を受賞し、名実とともにトップ・スターの仲間入りを果たした。この年ビリーは地元N.Y.はマジソン・スクエア・ガーデン3回を含む全米ツアーも大成功。サクセスストーリーのスタートである。4月には初来日し東京/大阪の2公演も実現。その勢いはそのまま「ニューヨーク52番街」リリース(1978年)へ、このアルバムは見事ビリー初の全米No.1ヒットとなり、第22回グラミー賞でもAlbum Of The Year(最優秀アルバム)、Best Pop Male Vocal Performance(最優秀男性歌手賞)を受賞。1979年Billboardアルバム年間チャート第1位。‘79年5月、2度目の来日。 

 1980年、世界のロック、ポップ・シーンが様変わりする中、7作目にあたるアルバム「グラス・ハウス」を発表。ピアノ・マン~ロックン・ローラー、ビリー・ジョエルの心意気を示し、アルバムはたちまちプラチナ・ディスクとなり、シングル「ロックン・ロールは最高さ」の全米No.1を含む4曲の大ヒットがうまれる。ビリーは又‘80年グラミー賞最優秀ロック男性歌手賞を獲得。フィル・ラモーンも最優秀プロデューサー賞を受賞となる。ビリーのコンサート・ツアーも初めて中近東まで及び、マジソン・スクエア・ガーデン5回公演も即日完売となった。1981年にはアメリカ以外の国でのアルバム・セールスが500万枚を越え、クリスタル・グローブ賞をCBSレコードから贈られる。同年4月3度目の来日公演、さらに過去の作品群を新たに今日化した初のライブ・アルバム「ソングス・イン・ジ・アティック」を9月に発表し、「さよならハリウッド」等がシングル・ヒットとなり蘇った。 

 1982年4月ビリーはオートバイ事故を起こし、右親指と左手首を骨折、世界中のファンを心配させたが、9月には、現代アメリカが抱える社会的問題にもストレートに切り込んだ最も濃厚でハード・コアな作品「ナイロン・カーテン」を発表する。1982年10月に世界初のCDが発売されたが、それは「ニューヨーク52番街」(35DP1)であった。1983年8月「イノセント・マン」を発表、ファースト・シングル「あの娘にアタック」の全米No.1ヒットを皮切りに連続6枚のシングル・ヒットを放ち、ベスト・セラーになりアメリカだけでも当時600万枚以上のセールスを記録。よく1984年5月4度目の来日。この時同伴したクリスティと1985年3月に結婚。(12月には長女アレクサ・レイ誕生。94年に離婚)1985年4月に新曲2曲を含む初の2枚組ベスト・アルバム「ビリー・ザ・ベスト」発表。当時300万枚を超えるセールスを記録した。


[1986−1994]

 1986年8月「ザ・ブリッジ」発表、このアルバムからは「マター・オブ・トラスト」又、ビリーの憧れのレイ・チャールズとの共演「ベイビー・グランド」等がヒットとなる。1987年ビリーはワールド・ツアーをスタート、6月には5度目の来日を果たし、7~8月にかけて行われた初のソ連公演では15万人の動員を記録し、ライヴ・アルバム「コンツェルト」として年末に発表された。

 1988年8月6度目の来日公演を東京ドームで果たした後、新作レコーディングを開始、1989年10月プロデューサーにミック・ジョーンズを迎え久々のスタジオ・アルバム「ストーム・フロント」を発表。ファースト・シングル「ハートにファイア」が全米No.1に輝き、アルバムのセールスも600万枚を超えた。1990年アメリカ~ヨーロッパ~アメリカを廻るワールド・ツアーをスタート。1991年7度目の来日。そして、1993年8月、前作から約3年8ヶ月振り、通算15作目となる「リヴァー・オブ・ドリームス」をプロデューサーにダニー・コーチマーを迎え発表、全米チャート3週連続No.1を獲得した。1994年夏、エルトン・ジョンとのジョイント・ライヴを行い、N.J.のGIANTSスタジアムでの5公演もチケットは完売。大成功で終演となっている。


[1995−2000]

 1995年1月リヴァー・オブ・ドリームス・ツアーで8度目の来日。この時大阪にて阪神大震災に遭遇し1/17の大阪城ホールがキャンセルになるが、スケジュールを押して1/19に振り替え公演を行う。

 「リヴァー・オヴ・ドリームス」を最後に新曲中心のポップ・アーティストとしての活動から離れると宣言し、以降、クラシック作品、あるいはミュージカルを書く…など様々な噂がされていたが、1997年、ボブ・ディラン作の新曲“心のままに”も含むベスト盤「Greatest Hits vol..3/ビリー・ザ・ベスト3」をリリース。85年の「ビリー・ザ・ベスト1&2」以来12年ぶりのベスト盤で83年の「イノセントマン」~93年「リバー・オブ・ドリームス」に至るヒット曲+97年の新曲を収録したものであった。

 1998年3月のエルトン・ジョンとのピアノ・マン・ツアー、初の4大ドームツアーでの9度目の来日を果たし、久々の素晴らしいパフォーマンスを日本のファンに見せつけてくれた。以降98年はエルトンとのピアノ・マン・ツアー終了後、単体でのワールド・ツアーを敢行。昨年1999年も2月から4月までビリー単体でのUSツアーを行い、その合間の3月にはブルース・スプリングスティーン、ポール・マッカートニーなどとともに遂に「ロックの殿堂」入り。夏には映画「プリティ・ブライド」に新録のカヴァー曲"WHERE WERE YOU (ON OUR WEDDING DAY)? "を提供、年末には2000 Years Tourと題し10回ほどの小規模なUSツアーを敢行し、最終日である12/31のミレニアム・ライヴをNYのMSGにて行い、その模様をレコーディング。2000年5月ビリーのアルバムとしては97年の「Greatest Hits vol..3/ビリー・ザ・ベスト3」以来3年ぶり、現段階での最新オリジナルアルバムである93年の「リヴァー・オブ・ドリームス」以来7年ぶりのニュー・プロダクツとなる、87年の「コンツェルト」以来13年振りのライヴ・アルバム『2000 Years-The Millennium Concert/ビリー・ザ・ライヴ~ミレニアム・コンサート』を発表。

 2000年6月にはスミソニアン協会が主催するピアノ誕生300年『PIANO GRAND』にホストとして参加し、「ピアノ・マン」「ベイビー・グランド」をプレイしている。


20世紀を代表するソングライター/メロディメイカーであり常に我々のリアル・タイムのスーパー・スターとして、歌い続けてくれるビリー・ジョエル、彼の名曲は時代を超えて生き続ける。


 

〜コールド・スプリング・ハーバー〜(1971年)

 

言葉をリズムとビートに載せ、丁寧に同時に大胆に紡ぎ出したメロディーを持ち、独自の閃きと味わいにあふれた3分から5分のストーリーを以て、それまでとはがらりと異なる人生へと聴く者を導く。それはおそらく、彼自身が幼いころから先達にふりかけられた魔法のワザなのだろう。そんな彼の人生は1949年5月9日に、合衆国ニューヨークのブルックリンで始まった。父ハワード・ジョエルと母ロザリンドの長男として生まれたウィリアム(ビリー)・マーティンは、移り住んだロングアイランドのヒックスヴィルでやがて、わずか3歳でモーツァルトを聴き弾くピアノの神童ぶりを示し、4歳のころから本格的なレッスンを開始する。8歳になる前に両親が離婚。母と姉との生活を続ける中で、エルヴィス・プレスリーのロックン・ロールとオスカー・ピーターソンのジャズを好む少年は、同時に日の暮れるのも忘れるほどの本の虫。そうして、後に歩む表現者としての資質を育んでいく。はたして、どれほどの人々がその夜ー1964年2月9日に人生を変えられてしまったのか。成功話としては振り返られることのない数えきれないほど多くの、しかしその瞬間は誰にも束縛されない無限の可能性に向かって羽ばたいた雄々しき魂の中にビリーも混ざっていた。『エド・サリヴァン・ショー』でのビートルズは、こうして革命を成し遂げてしまった。ピアノの鍵盤と同時にもうひとつ、ボクシング・グローブにもその手を馴染ませていたビリーだが、28戦22勝の戦績を残し鼻骨骨折を機に16歳から3年続けたアマチュア・ボクシングのリングを降りる。エコーズやエメラルド・ローズ、ロスト・ソウルズと64年から展開した地元バンドでのキーボード奏者としての活動のかたわら、徐々にプロのレコーディング・セッションなどにも顔を出し始めたビリーは、大学には進まず、67年のハッスルズへの参加に伴い、何も保証のないプロ・ミュージシャン生活へと突き進む。『THE HASSELS』(67年)、『HOUR OF THE WOLF』(69年)の2枚が発表されるが輝かしい未来は夢の中にしか現れず、ドラマーのジョン・スモールを伴いグループを離脱。ふたりで組んだアッティラも、70年のアルバム『ATTILA』の価値を理解できる者はまだ限られており、ビリーにとって最後のユニットは消滅する。

 ソングライターとして活路を見出そうと試み、西海岸のファミリー・プロダクションとの契約を結んだ彼が、ようやく最初のソロ・アルバム『コールド・スプリング・ハーバー〜ピアノの詩人〜』を発表したのが71年であった。それでも扉は、まだ容易に取っ手すら見つからないままであった。

 

〜ピアノ・マン〜(1973年)

 

ロス・アンジェルスで次のチャンスを待ちながら“ビル・マーティン”の名でバーやラウンジでのピアノ奏者として働いていた彼を支えたのが、エリザベス・ウェバーだった。彼女はアッティラで共に夢をみた親友ジョン・スモールの前妻である。一日の実りと憂いを、一杯のアルコールとひと頻りのピアノの調べに重ねて過ごす人々の姿は、ビリーの創作者としての感性を奮い立たせ、またエリザベスの献身と信頼とは音楽に賭ける情熱を永く揺るぎないものとする糧となった。実際にこれらふたつは、この時期を境に作品の上での劇的な意義と動機になっているように思う。72年4月の、プレルト・リコのウェガ・バーヤでの“マー・ヨ・ソル・フェスティヴァル”出演は大手CBSコロンビア・レコーズの関心を引くところとなり、まだ未発表の「キャプテン・ジャック」(後に『ピアノ・マン』に収録)のプロモーション音源がフィラデルフィアの有力ラジオ局WMMRで頻繁に流されたことから興味を持ったクライヴ・デイヴィスが、L.A.のラウンジまでビリーの演奏を聴きに来た。デイヴィスは当時コロンビアの最重要幹部であった(サンタナやジャニス・ジョプリン、ブラッド,スエット&ティアーズらを以て同社をニュー・ロックの時代に導いた立役者=後のアリスタ/現Jレコーズ社長)。彼が契約に乗り出したことで、こじれていたファミリー・プロダクションとの関係も清算される。“僕が行きたいのはコロンビア大学じゃなくてコロンビア・レコードなんだ”ーかつて母親ロザリンドを進学断念で失望させたときに口にした言葉は、守られた約束となった。73年、ビリーの新しい出発を飾るアルバム『ピアノ・マン』が発表され、タイトル曲のスマッシュ・ヒットと共にロング・セラーとなって、およそ2年の歳月を費やしゴールド・ディスク(50万枚以上の売れ行き)を獲得した(全米第27位)。ここからはさらに「悪くはないさ」(全米第80位)、「流れ者の祈り」(同第77位)がランク・インしている。エリザベスとの正式な結婚も実現。アルバムをサポートするため、ビーチ・ボーイズやJ・ガイルズ・バンド、ドゥービー・ブラザーズらのスペシャル・ゲスト(という扱いの前座)として精力的にライヴ活動を展開したビリーが、初のヘッドライナーという栄冠を手にした公演地は、彼に大きなチャンスを与えてくれた街=フィラデルフィアだった。


 

〜ストリートライフ・セレナーデ〜(1974年)

 

前作に続いてCBSのスタッフ・プロデューサーで元ウィ・ファイヴのメンバーでもあるマイケル・スチュワート(キングストン・トリオにも在籍したジョン・スチュワートの兄)に制作を委ねた次作『ストリートライフ・セレナーデ』が74年に発表されると、ここからは「エンターテイナー」が全米第34位まで上昇する。ロス・アンジェルスのノース・ハリウッドにあるデヴォンシャー・サウンドで録音された同作は、収録10曲いずれにもビリーらしい作風が漂い(「スーベニア」はすばらしい)、シンガーソングライター然とした楽曲にロック・アーティスト的なサウンドやアレンジの試みが融合した仕上がりとなっている。ただしビリー自身が感じたのは、西海岸の弛緩した雰囲気が醸し出す創造力の鈍化だったのかもしれない。アルバムは全米第35位を記録するが、ビリーたちは、東へと旅立つ。カリフォルニアの太陽は眩しすぎたのである。

 

 

〜ニューヨーク物語〜(1976年)

 

賢い歴史家のように言えば、ニューヨークに戻ったことが彼個人のミュージシャンとしての歩みに与えた意義は決定的なものだった。フィル・スペクターへのこだわり(今風だとトリビュート?)と共に、何よりもハリウッドへの別れすなわち喧噪と殺伐の土地への帰還をいくぶんかセンチメンタルに綴った「さよならハリウッド」。この街へのおそらく決してまっすぐではない誇りと偏愛など、抑えられぬ感情が美しくドラマティックに内包された「ニューヨークの想い」。これらを含み、初めてビリー自身がプロデュースを手掛けニューヨークのヘンプステッドにあるウルトラ・ソニック・スタジオで録音された『ニューヨーク物語』(76年全米第122位)。当時同じCBSに所属していた大物グループ=シカゴとのつながりで知られるジェイムス・ウィリアム・ガルシオに縁のカリブ・マネージメントとビリーが契約していた関係からか、当初はガルシオのプロデュースも検討され、さらにエルトン・ジョンのバック・メンバーだったディー・マレイやナイジェル・オルスンの起用も試みられたが、いずれも思うにまかせず最終的にはビリーの意向を汲む形で制作されたという。セールス面では満足の行く数字を残してはいないが、楽曲はどれも実に瑞々しく、彼に独創的な表現力が蘇りもう一歩で完成するところまで来ているのがはっきり理解できる。また、ダグ・ステグマイア(ベース)とリバティー・デヴィート(ドラムス)という、以降のビリーの音楽活動で極めて大きな存在となるふたりの偉大なミュージシャンがここで登場することも忘れてはならない。マネージャーを妻のエリザベスがこなすことになり(彼女はL.A.時代の73年にUCLAでマネージメントの聴講を受けていた)、コロンビアとの再契約に際してより有利な条件での印税収入が見込めた。世の中が無機質なダンス・ビートでディスコ・ブームに踊っていた時代に、本当のアーティストがその才能に見合う正当な評価を得るまで、あと少しだけ、アルバム1枚分くらいの時間が必要だった。


 

〜ストレンジャー〜(1977年)

 

前回の打席で打てる球を見逃したビリーが、今度は鮮やかに場外まで持っていった。『ニューヨーク物語』でも打診したものの調整がつかず、今回ようやく実現したプロデューサーがフィル・ラモーンだ。77年秋に届けられた通算第5作には、ラルフ・マクドナルドやパティ・オースティン、リチャード・ティー、フィービ・スノウ、ヒュー・マクラッケンら豪華な参加者を招き、都会的に洗練された極上のコンテンポラリー作品に仕上がっている。そうした装飾面が楽曲/詞作の両方において限りなく完成に近づいたビリー・ジョエルの世界をいっそう際立たせ、耳にした者すべてがそのすばらしさを誰かに伝えずにはいられない一枚になっていったのだろう。全米最高第2位まで上昇した後も延々と売れ続け、今日まで900万枚のセールスに到達。ビリーを合衆国の重要なシンガー/ソングライターのひとりとしてはっきりと認識させたこのアルバムは4曲ものシングル・ヒットを生み、当時、CBSの歴史においても『明日に架ける橋』(サイモン&ガーファンクル)に次ぐベスト・セラーになったとされている。

 

〜ニューヨーク52番街〜(1978年)

 

『ストレンジャー』からの4曲目のヒット「シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン」がチャートに残っていた78年秋、次作『ニューヨーク52番街』が発表され、あっさりとそして堂々とビリーにとって初の全米No.1アルバムに輝く。ここからも、いかにも彼らしい内容の「マイ・ライフ」に続いて「ビッグ・ショット」(全米第14位)、「オネスティ」がチャートを賑わせた。フレディ・ハバードやマイク・マイニエリ、デヴィッド・スピノザ、ブレッカー兄弟らジャズ/フュージョン勢に、当時のレーベル・メイトでもあったシカゴからドニー・デイカスとピーター・セテラと、贅を尽くしたゲスト陣がアルバムをゴージャスで豊穣な、ビリーの別の音楽性を表現していた。彼の日本における人気が本格的になってきたのもこのころで、2度目の来日公演で東京は日本武道館を売り切る状況となった。『ニューヨーク52番街』は80年2月に発表された第22回グラミー賞で最優秀アルバムに選出された。


 

〜グラス・ハウス〜(1980年)

 

前々作『ストレンジャー』より固定メンバーとなったサックス奏者のリッチー・カナータの存在でいっそう強固なバンドとしての一体感とパワーを手にしたビリーが、1曲目「ガラスのニューヨーク」(80年全米第7位)のオープニングで叩き割ったのは意図せぬ形で築き上げられた彼自身のスーパースター像だった、のかもしれない。80年春に発表され、ビリーの“ロックン・ロールへの回帰”と位置づけられたアルバム『グラス・ハウス』は瞬く間に再び全米No.1を獲得。やや定例化していたゲスト・プレイヤーは招かず、敢えてシンプルでパワフルなロック・サウンドを前面に押し出した印象の作品集である。ここにはポリスを思わせる「レイナ」やジョー・ジャクソンに通じる「孤独のマンハッタン」など台頭しつつあったブリティッシュ・ニュー・ウェイヴへの回答と呼べそうな作風も収められているのが興味深い。さらに「ロックンロールが最高さ」、「ドント・アスク・ミー・ホワイ」、そして「真夜中のラヴ・コール」(80年全米第36位)と計4曲のシングル・ヒットを輩出しアルバム・セールスは700万枚を突破している。

 

 

〜ナイロン・カーテン〜(1982年)

 

ビリーにとって初のライヴ・アルバムとなった『ソングズ・イン・ジ・アティック』は、様々な会場で収録された、『ニューヨーク物語』以前の作品からの楽曲のみで構成されていた。つまりその時代にもこれだけの曲を残していたのだということを伝えるのに最良の手段だった。81年に発表され全米第8位まで上昇。「さよならハリウッド」(全米第17位)と「シーズ・ガット・ア・ウェイ」(同第23位)がシングル化されている。リターン・マッチを終えたビリーは、翌82年には早速次の勝負に出た。4月にはバイク事故のためミュージシャンとしての再起が危ぶまれる。振り返れば、その夏にはあらゆる困苦を共に乗り越えてきたはずのエリザベスとの離婚があった。そんな中で当然スムースに進まなかった創作の末に、そのキャリアにおいて今日まで最も冒険的で実験的な作風を伴った『ナイロン・カーテン』は届けられた。おそらく彼にとっても大きなテーマであったのだろう。かつてビートルズによって67年に成された、ロックを若者の娯楽から芸術へと引き上げたほどの偉業に比類する作品を試みることは。ヴェトナム戦争は終わった後も終わっていないことを。冷戦という名の化け物が現代社会を蝕んでいる真実を。人々を幸せにするための様々な産業の発達が多くの精神を苦しめる社会構造に結びついている現実を。人間関係の軋轢を。文明化された日々の生活が生み出す抑圧を。直接ではなくとも言及すべきテーマは少なくなかった。が、それに敢えて挑む、富も名声も得たポップ・スターは多いとは言えなかった。ピアノ弾きは立ち上がり世に問うた。『ナイロン・カーテン』は全米第7位。ここからは「プレッシャー」(全米第20位)、「アレンタウン」(同第17位)、「グッドナイト・サイゴン〜英雄達の鎮魂歌」がシングル・カットされている。


 

〜イノセント・マン〜(1983年)

 

『ナイロン・カーテン』をもし作らなければ、ビリーが『イノセント・マン』をこんな風なアルバムにしなかったとすれば、我々は(あるいは私個人は)あの冒険作に別の意味でも感謝しなくてはならない。5年ぶりの休暇でカリブ海の島を訪れたビリーは、クリスティ・ブリンクリーと出逢う。83年初頭のことだ。急速に接近したふたりの関係が、新しいアルバムの明るく楽しい空気と無関係ではなかったのは想像に難くない。恋をして陽の当たる道をスキップで歩く楽しさを思い出した男は、自らの人生を彩った素敵なポップ・ミュージックへのオマージュを想わせる世界を造り出した。83年秋に発表された『イノセント・マン』からは「あの娘にアタック」、「アップタウン・ガール」、「イノセント・マン」、「ロンゲスト・タイム」(同第14位)、「夜空のモーメント」(同第27位)、「キーピン・ザ・フェイス」(同第18位)と6曲ものヒットが生まれ、アルバム自体も全米第4位を記録した後も長くチャート・インし700万枚ものセールスに到達している。


 

〜ザ・ブリッジ〜(1986年)

 

『イノセント・マン』の商業的な成果はひとつの区切りとなったのか、ここで初めてのグレイテスト・ヒッツとして『ビリー・ザ・ベスト』が編集され(85年)、全米第6位/累計2000万枚のこれまたメガ・ヒットを記録する(「オンリー・ヒューマン」=全米第9位/「ナイト・イズ・スティル・ヤング」=同第34位)。この85年は3月23日にクリスティと結婚。さらに12月29日には長女アレクサ・レイが誕生。私生活の充実は創作にも新たな起点を生んだようで、次の出発地として86年夏に届けられたアルバム『ザ・ブリッジ』は、スーパー・スターの抑圧を感じることなく素直に心情を綴り、それが自然な魅力として映し出されたポップ/ロック作品となっていた。このアルバムで到達した場所が大きな納得になったようにフィル・ラモーンとの制作も最後となる。映画『ルースレス・ピープル』に提供し先行発売された「モダン・ウーマン」(全米第10位)に続き「マター・オブ・トラスト」(同第10位)、「ディス・イズ・ザ・タイム」(同第18位)、そして本年(04年)6月に他界した偉大なるレイ・チャールズ(愛娘の名を彼からつけたほど敬愛していた)とのデュエットが実現した「ベイビー・グランド」(同第75位)がヒットし、アルバムも全米第7位まで上昇している。87年に大規模な世界ツアーを敢行したビリーは、7月から8月にかけてソ連公演を行い15万人を動員。そのときの模様を年末に『コンツェルト』なるライヴ作品に収め発表した(全米第38位)。


 

〜ストーム・フロント〜(1989年)

 

再び最前線へー 89年秋、新たなパートナーとしてプロデューサーにミック・ジョーンズを迎えて『ストーム・フロント』を発表する。ジョーンズは何よりフォリナーの中心人物として知られる、どちらかといえばハードなロック・サウンド寄りのミュージシャンでもあるが、パワーを損なうことなくキャッチーな作品を仕上げる術にも長けた才人。その感覚が充分に活かされ、より力強く90年代へと向かおうとする意欲が伝わってくるアルバムであった。『グラス・ハウス』以来の全米No.1に輝き、「ハートにファイア」、「愛はイクストリーム」(全米第6位)、「ザ・ダウンイースター”アレクサ”」(同第57位)、「ノット・ハー・スタイル」(同第77位)、「そして今は...」(同第37位)といったヒットを輩出した。アグレッシヴなロックを提示するのと同様に、内省的でさらに深みを増した言葉の響きを伝えるソングライターとしての側面が改めて意識されたーそんな作風が感じられた。

 

 

〜リヴァー・オブ・ドリームス〜(19993年)

 

ジェイムス・カーン、ニコラス・ケイジ、サラ・ジェシカ・パーカーらが出演した、エルヴィス・プレスリーのそっくりさん大会を舞台に繰り広げられる映画『ハネムーン・イン・ヴェガス』。そのサウンドトラックに提供されたプレスリー・ナンバーのカヴァー「恋にしびれて」(92年全米第92位)のヒットを挟む形で、アルバム『リヴァー・オブ・ドリームス』は93年に発表された。『ナイロン・カーテン』にも通じるアグレッシヴでアーティスティックな音像表現を覗かせつつ、前2作のストレートなロック・サウンドも聴かせ、かつ全体の後半にピアノ主体の構成を採るバランスの良さ。最初のシングルとなったタイトル曲では「ライオンは寝ている」(トーケンズ)に通じるエスニック・ポップ調がノスタルジックに響き(そう、『イノセント・マン』の手法)、見事なヒットを記録する実績を残した。カラー・ミー・バッドが参加した「君が教えてくれるすべてのこと」(全米第29位)、そして「眠りつく君へ」(同第77位)とそれぞれタイプの異なる楽曲がチャートを飾っている。ここではさらにまた、ジェイムス・テイラーやキャロル・キングとのバンド歴を初め、数々のセッションやドン・ヘンリーらのプロデュース業でも絶大な信頼を得てきた(名ギタリストでもある)ダニー・クーチことダン・コーチマーが相方に選ばれている。アルバムはあっさり全米第1位に輝き、人々が変わることなく彼の音楽に多くを望んでいる事実を示した。しかし、これを最後にビリー・ジョエルは今日まで11年、オリジナル・アルバムを発表していない。

 97年8月には『ビリー・ザ・ベスト 3』が発売され、全米第9位を記録。ここに収められた3曲の新曲からボブ・ディラン作品「心のままに」がシングル化され全米第50位まで上昇した。また、作曲家としてのクラシック・ソロ・ピアノ・アルバム『ファンタジー&デリュージョン〜ミュージック・フォー・ソロ・ピアノ』(演奏はリチャード・チュー)が、01年秋に発表されている。

 


 

 

本作『ピアノ・マン : ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ビリー・ジョエル』は、これまで彼が発表してきた代表的なヒットを集めた編集盤であり、『リヴァー・オブ・ドリームス』までの作品を対象としてCD1枚に収めたものでは初の企画となる。選ばれたのは以下の19曲。

 

「あの娘にアタック」

83年のアルバム『イノセント・マン』から最初のシングルとして発売され、同年9月に全米第1位に輝く。俳優のロドニー・デンジャーフィールドが出演したビデオ・クリップも、実にゴキゲンな仕上がりだった。

 

「アップタウン・ガール」

やはり『イノセント・マン』より、83年全米第3位を記録。こちらのクリップには当時の恋人/後の妻クリスティが出演。高額の報酬が保証されたトップ・モデルならではのエレガントな美しさが発揮され、鮮やかな彩りを与えていた。

 

「ドント・アスク・ミー・ホワイ」

アルバム『グラス・ハウス』(80年)から80年に全米第19位まで上昇。ラテンのフレイヴァーを織り込んだポップなシャッフル・ナンバー。ギターのロックン・ロールでもピアノのバラードでもない、こうしたスタイルでヒットが狙えるのも、ビリーのミュージシャンとしての幅の広さであり奥の深さ、であろう。

 

「ピアノ・マン」

第2作『ピアノ・マン』(73年)のタイトル曲。74年全米第25位。すでにビリーのテーマ曲的な位置づけを持ってから30年を誇る名曲で、ステージでは観客の大合唱を誘う定番。04年には首都圏で電力会社のCMに用いられ、新たなファン層の開拓に結びついたかもしれない。本盤には“ラジオ・エディット”ヴァージョンを収録。

「ニューヨークの想い」

第4作『ニューヨーク物語』(76年)収録曲。L.A.ライフに見切りをつけ戻ったビリーたちを、迎え入れたビッグ・アップルの空気は、大きな活力とインスピレーションを生んだようで、到着し20分をかけずに書きしたためたのが、本当か嘘かこの、故郷を慈しみ自身の分身として想いのたけを注ぎ込んだ佳曲であった。

 

「ザ・リヴァー・オブ・ドリームス」

第12作『リヴァー・オブ・ドリームス』の表題曲。93年全米第3位。“河”が象徴する困難や障壁といった比喩、それを乗り越え自信の在処を追求することの意義といったテーマ性をシリアスになりすぎず、同時にはぐらかすことなくポップ・ソングの意匠で伝える佳曲。

 

「ロックンロールが最高さ」

アルバム『グラスハウス』からの最初のシングルとして発売され、彼のキャリアにおいて記念すべき初の全米No.1に輝いたヒット(80年7月)。高名なユース・カルチャー誌『ROLLING STONE』で、著名な評論家デイヴ・マーシュ氏は、ビリーはロックの才よりも他のスタイルの方が勝ると論じたが、当人にしてみれば”ポップ歌手”のレッテルに対してほんのちょっと本質の一部(すべて、ではない)を示したに過ぎないのかもしれない。私はもちろん、彼をロックン・ローラーでもあると思っている。

 

「ハートにファイア」

89年のアルバム『ストーム・フロント』からの全米第1位獲得曲(89年12月)。ビリーがこの世に生を受けた49年以降の様々な歴史的出来事(社会的な事件だけではなく今日の生活に結びついた象徴的な事物をも含む)を羅列し、我々はこれらのような変革を未だ生み出していないと鼓舞するひとつのメッセージ・ナンバー。ここではシングル・ヴァージョンが聴ける。

 

「グッドナイト・サイゴン〜英雄達の鎮魂歌」

アルバム『ナイロン・カーテン』(82年)からの3曲目のヒット(全米第56位)。7分に及ぶ長尺をわざわざシングルにしたこと自体が、ラジオでの反応の重要さが日本の比ではない合衆国では無謀に近いのではあるが、それをむしろ心意気と取るのもいいのかもしれない。それを自分じゃなければできないことをやることの価値の大きさと、勝手に受け止めてみるのも、また。

 

「マイ・ライフ」

アルバム『ニューヨーク52番街』(78年)からの最初のヒット(全米第3位)。

ここにはシングル・ヴァージョンを収録。

 

「シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン」

アルバム『ストレンジャー』(77年)より78年全米第17位を記録。シンプルな作風に限りない奥深さを感じさせ、ビリーの作家性の高さを伝えた、美しく愛おしい作品。

 

「シーズ・ガット・ア・ウェイ」

もともとはアルバム『コールド・スプリング・ハーバー』(71年)に収められていた曲だが、81年のライヴ・アルバム『ソングズ・イン・ジ・アティック』に収録されたこのヴァージョンが同年全米第23位のヒットになった。

 

「スカンジナヴィアン・スカイ」

アルバム『ナイロン・カーテン』収録曲。サイケデリックなシュールさに溢れた複雑なサウンドを伴い、現代のパラノイアを表現した異色作。ミックスに6週間を費やしたという、まさしくビリーのアーティスティックな姿勢が凝縮されたナンバーと呼べる。

 

「イノセント・マン」

アルバム『イノセント・マン』のタイトル曲。84年全米第10位。恋愛に重ね合わせながら、哲学を語り、この前後の自身の姿勢を映し出したようにもうかがえる歌詞が興味深く、しかも純粋にポップ・ヒットとしても機能した楽曲だ。

 

「ムーヴィン・アウト」

アルバム『ストレンジャー』の幕開けを飾ったナンバー。ビリー流のシニカルなドラマ風描写が、アルバムの全体像を鮮明に刻み込んだ秀作になっている。当初第1弾シングルとして発売されるも「素顔のままで」の評判が先んじ、順を違えてチャートを上昇。結果全米第17位(78年)を記録した。

「若死にするのは善人だけ」

アルバム『ストレンジャー』より、全米第24位(78年)。登場人物や舞台設定、教訓じみた言い回し、それらを際立たせる曲調にサウンド、歌唱、とビリー流のユーモアが瑞々しく炸裂する魅力的な一曲。

 

「ストレンジャー」

アルバム『ストレンジャー』のタイトル曲。合衆国ではチャート・インしていないが日本ではシングル・カットとなり、不思議なことにディスコでも人気を博し有線放送でも多数のリクエストを集めて彼の代表的なヒットとなっている。従って今回も日本盤のみのボーナス収録が許された。

 

「オネスティ」

アルバム『ニューヨーク52番街』から全米第24位(79年)。日本では当時嗜好飲料のTV-CMに用いられたこともあり、代表的ヒットのひとつとなった。04年にはまた銀行のCMに起用されている。

 

「素顔のままで」

ビリーの未来を切り拓いた名曲中の名曲。ここでは“ラジオ・エディット”ヴァージョンを収録。アルバム『ストレンジャー』からの最初のヒットとして78年に全米第3位を記録。77年9月に米NBC-TVの人気番組『SATURDAY NIGHT LIVE』に出演したビリーは新曲を披露。この夜の視聴者2000万人が耳にしたのが、「素顔のままで」であった。

 

TEXT: 矢口清治