<バーブラ・ストライサンドBIOGRAPHY>

映画監督/エンターテイナーのバーブラは、4月24日にブルックリンでダイアナとエマニュエル・ストライサンドの間に生まれた。彼女の生後15ヶ月にこの世を去った父親は、高名な教師であり学者であった。エラスムス・ハイスクールで名誉学生となった10代の彼女は、誰の助力も励ましも得ることなくショービジネスの世界に飛び込んだ。マンハッタンの小さなクラブでの歌唱コンテストに勝ち残ったのだ。熱心で成長真っ只中の彼女には、他のクラブからも出演依頼がかかるようになり、すぐに音楽業界の注目の的となった。ボン・ソワールやブルー・エンジェルといったクラブに出ていた頃だ。



1962年、彼女はコロンビア・レコーズと契約を交わし、デビューアルバムはすぐにアメリカの女性ヴォーカリストによる最も売れるアルバムとなった。



ブロードウェイ・ミュージカル「アイ・キャン・ゲット・イット・フォー・ユー・ホールセール/あなたには卸値で」でのデビュー・パフォーマンスの後、彼女は「ファニー・ガール」というコメディのファニー・ブライスという役を演じることになる。このショーは、1964年の3月26日にウインター・ガーデン・シアターで上演された時すでにメジャー・ヒットとなっており、彼女独特の演技力は、2度目のトニー・ノミネーションをもたらした。



このように上り調子の彼女は、CBSテレビジョンとの間にスペシャル番組のプロデュースと出演に関する10年契約を結ぶ。その契約は、彼女にアーティストとしての完全なコントロールを許すもので、このような権利が当時の彼女のような若くて経験も浅いアーティストに与えられたのは異例のことであった。その契約による最初のスペシャルは5つのエミーを得た「マイ・ネーム・イズ・バーブラ」で、続く4つのショーのうちには「カラー・ミー・バーブラ」があり、これらもまた批評家やオーディエンスから高い評価を受けた。上に挙げた2つのスペシャル番組は、20年後にヴィデオカセットとして発売されるやいなやトップセラーの仲間入りを果たした。



1966年、バーブラは「ファニー・ガール」の偉業をロンドン、プリンス・オヴ・ウェールズ・シアターでも繰り返した。ロンドンの批評家たちは、彼女をそのシーズンのミュージカルで最高の主演女優と評した。



映画において、バーブラのコロンビア・ピクチャーズによる「ファニー・ガール」ほど幸運なデビューを果たした作品はそう多くはないだろう。1968年のアカデミー賞だけでなく、ゴールデン・グローブ賞も勝ち取り、ナショナル・アソシエーション・オヴ・シアター・オーナーズから「スター・オヴ・ザ・イヤー」に指名された。「ハロー・ドリー」や「オン・ア・クリア・デイ・ユー・キャン・シー・フォーエヴァー/晴れた日には永遠が見える」等の映画への出演に続き、1970年にリリースされたノン・ミュージカル・コメディの「ジ・オウル・アンド・ザ・プッシーキャット」に主演した。1972年には再び、大反響を呼んだコメディのヒット作「ワッツ・アップ・ドック?」があり、その後は彼女自身のプロダクション会社バーウッド・フィルムズによる最初の映画「アップ・ザ・サンドボックス」へと続いた。この作品は当時大きくなりつつあった女性の地位向上を目指す運動を扱った最初のアメリカ映画である。



今も記憶に新しい映画作品「追憶」は彼女に1973年アカデミー賞のベスト・アクトレス部門へのノミネーションをもたらした。大成功を収めた1976年の「スター誕生」は彼女がプロデューサーとしてその洞察力とエナジーを発揮した最初の映画作品であり、6つのゴールデン・グローブを獲得し、サウンドトラック・アルバムは4百万枚を売りマルチ・プラチナに認定された。バーブラは、最初の映画を終えたすぐ後に「イェントル・ザ・ヤシヴァ・ボーイ」と題された短い物語を読み、その話を元に2作目の映画を作りたいと思っていた。しかしその夢を果たすには14年間に渡る準備期間が必要だった。映画「愛のイェントル」はロマンティック・ドラマと音楽とが組み合わさったもので、心と精神においては何事も不可能ではないと悟る勇敢な女性が主題。この話が称えているのは、伝統的な価値観に縛られずに自分の能力を最大限に引き出そうとする女性達だ。またこの作品は、1,500万ドルという大予算プロジェクトであり、その後の女性監督達が高度なレベルの制作現場への扉を開ける際の手助けとなった。バーブラの監督デビュー作となったこの1984年の作品は、アカデミー4部門にノミネートされ、ゴールデン・グローブのベスト・ディレクター部門、ベスト・ピクチャー(ミュージカル or コメディ)部門の両方で受賞した。彼女は、これまでのキャリアで合計11個のゴールデン・グローブを受賞してきている。「愛のイェントル」に続く作品は「ナッツ」で、これは子供の頃の体験が元で、反社会的な怒りっぽい性格になってしまった頭の良い女性についての話。バーブラは1987年にリリースされたこの力強いドラマに主演し、プロデュースと作曲も手掛けた。



彼女の映画監督2作品目は「The Prince Of Tides/サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方へ」で、これは幼少時代のトラウマが後の人生に及ぼす影響と、家族関係の探求が主題となっており、7つのオスカー・ノミネーションとディレクターズ・ギルド・オヴ・アメリカでの監督賞へのノミネーションとを得て、女性として歴代3人目の記録となった。彼女がこのストーリーを選んだ理由をバーブラの言葉から知ることが出来る。「これは愛と憐れみがどれだけ魂を解き放ち、癒してくれるかについての話です。私は、人が前向きに変化して、持ち得る力を全て発揮して成長していくという話を伝えることに興味があります」。



この話の原作者であるパット・コンロイは、バーブラと2週間共に仕事をした後、彼女にその小説の本を贈った。そしてそれには献呈の辞としてこう書かれている。「バーブラ・ストライザンドへ:クイーン・オヴ・タイズ・・・バーブラ、あなたは多くを意味する人ですが、偉大な教師でもあります。私の人生に訪れた最大の教師の一人です。私は恩人である教師達を尊敬していて、彼ら彼女らは私の作品の中に生きています。私が普段何げなしに書く散文の端っこの方で目に見えないダンスをしていたり。あなたが私の書いた小説をあんなに真剣に、また愛情を込めて扱ってくれたことは、この上なく光栄なことです。ありがとう。あなたが「プリンス・オヴ・タイズ」を映画という形にして贈り返してくれたことは一生忘れません。パット・コンロイ」。



バーブラのバーウッド・フィルムズはテレビの世界に社会的、歴史的、そして政治的な問題を持ち込むことに力を注いだ。テレビ映画にはより多くの視聴者がいるが、それまではそういった事柄は取り上げられてこなかったのだ。「救助者達」は6回連続のシリーズ作品で2時間のスペシャルとしてショータイムに放送された。(うち2回は既に放送され、高い評価と幅広い視聴者層を得ていた)この番組は、ホロコーストからユダヤ人達を救い出した非ユダヤ人達に捧げられたものである。バーウッド社を通じてバーブラは何百万人もの人々に、ゲイに対する嫌がらせや彼らの市民権の抑制を問題にしたドラマを提供してきた。批評家達からも称賛を得た「サーヴィング・イン・サイレンス:The Margarethe Cammermeyer 物語」にしても、その作品がテレビ・ネットワークで広く認知されたのは、彼女がプロデュースしていたということと、アーティストである彼女の社会問題への深い配慮とがあってこそだったと言われている。緊急を要する市民権問題を伝え、世の中に大きなインパクトを与えたこの作品は、3つのエミーと6つのエミー・ノミネーションとピーボーイを得た。同じくバーウッド社による「ロングアイランドでの事件:キャロライン・マッカーシー物語」は銃保持のコントロールについての国民的な議論を促した。これは本当に起こった事で、妻と母親が悲劇を乗り越えて銃保持のコントロールへの運動を率先し、ついには議会での席を勝ち取ったという話である。



また、バーウッドは現在、中東和平を支援するための映画をショータイムに放送するために準備中である。この「2つの手が世界を揺らす」はホワイトハウスで歴史的な握手をしたイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の人生をなぞっている。



真のルネッサンス・ウーマンである彼女は、その人生と芸術を慈善活動に捧げてきている。「ストライザンド・ファウンデーション(基金)」は、女性の社会的平等、人権・市民権・自由の保護、社会的に困難な状況にいる子供達への援助、そして環境保護といった問題に取り組んでいる。そのストライザンド・ファウンデーションを通じて、彼女は米国環境保護基金による調査に資金を提供した。その調査とは京都で行われた地球温暖化に関する国際会議のためのものである。彼女の環境への貢献はまた、サンタモニカ山岳管理委員会への宿泊施設の寄贈という形でも反映されている。そしてその24エーカーの安息所で行われたのが、彼女の「ワン・ヴォイス」コンサートだったのである。その施設は環境研究の拠点としても使われている。またバーブラは、AIDS関連の社会問題のスポークスマン、基金設立者でもあり、この27年間、自身のコンサートの収益金をそれらの関連団体に寄付してきた。彼女は映画作品と私生活の両方を通してその問題に取り組んでいるが、それを反映したものとしては1992年のAIDSプロジェクト・ロサンゼルスから授与されたコミットメント・トゥー・ライフ賞が挙げられる。AIDSと共に生きる人々への援助が称えられたのだ。また、それらの人々の人権保護のための努力はACLUビル・オヴ・ライツ賞という形で表彰された。アーティストが政治に関わる権利と義務についての彼女の意見は、1995年のハーヴァード大学でのスピーチで注目を集めた。このスピーチはジョン・F・ケネディ・スクール・オヴ・ガヴァメントがスポンサーとなって行われたもので、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポスト等の新聞紙上で先例のないレポート記事となって公表され、C-Spanでも繰り返し取り上げられた。



1986年の選挙に先駆けて、彼女は20年振りのフル・レングス・コンサートを行なった。ハリウッド女性政治委員会に収益金を寄付し候補者を援助するためだ。このコンサート「バーブラ・ストライザンド:ワン・ヴォイス」は同年9月6日にカリフォルニアの彼女の自宅に 500人のゲストを招いて開かれ、それを収録したものが12月27日にHBOを通じて放送されて驚異的な反響を得た。その夜集められた資金は、民主党の上院議員5人が選出される手助けとなり、同党が上院での議席を過半数確保するのに一役買ったのだ。それに加え、彼女はビル・クリントンの大統領選挙キャンペーンにも数百万ドルの援助をしてきた。今日までに、ストライザンド基金を通じてチャリティーに寄付された援助金の額は、1千万ドルを越え、そのうち7百万ドルは「バーブラ・ストライザンド:ワン・ヴォイス」で拠出されたものである。彼女は今もなお、自身のエナジーと資源の大部分をストライザンド基金のために使っている。彼女の情熱的な政治活動はこれからも続くだろう。1998年の国民総選挙の重大さを認識していた彼女は、自ら積極的に選挙活動に関与した。共和党議員達はその党大会において、クリントン政権の政務実行を阻止する目論見で非難の演説をしていたが、彼女はそれに対する批判を最初に行い、またその批判は最も率直なものであった。バーブラはその総選挙で35人の候補者を直接支援し、うち27人が当選した。また、194人の候補者を自らのウェブサイトに登場させ、彼女が AOLによる選挙前日チャットに参加した際にそれらの候補者を推薦した。(うち155人が当選し、39人が落選)。上記の2例では、どちらも約80パーセントの割合で当選者を支援したことになる。



1998年7月1日、バーブラは映画監督/俳優のジェームズ・ブローリンと結婚した。



R.I.A.A.認定の記録



ゴールド・アルバム:40枚

プラチナ・アルバム:25枚

マルチ・プラチナ・アルバム:13枚

ゴールド・シングル:8枚

プラチナ・シングル:5枚

ゴールド・ヴィデオ:4枚

プラチナ・ヴィデオ:1枚

マルチ・プラチナ・ヴィデオ:1枚