デヴィッド・ボウイ / ザ・ネクスト・デイ | DAVID BOWIE / THE NEXT DAY

BSCD2 BSCD2 Blu-spec CD2

アルバム詳細はコチラ

インフォメーション

デヴィッド・ボウイ10年ぶりの新作『THE NEXT DAY』に合わせてカタログを高品質BSCD2でリリース!

デヴィッド・ボウイ / ザ・ネクスト・デイ DAVID BOWIE / THE NEXT DAY

収録曲

01. ザ・ネクスト・デイ / The Next Day
02. ダーティ・ボーイズ / Dirty Boys
03. ザ・スターズ / The Stars (Are Out Tonight)
04. ラヴ・イズ・ザ・ロスト / Love Is Lost
05. ホエア・アー・ウィ・ナウ? / Where Are We Now?
06. ヴァレンタイン・デイ / Valentine's Day
07. イフ・ユー・キャン・シー・ミー / If You Can See Me
08. アイド・ラザー・ビー・ハイ / I'd Rather Be High
09. ボス・オブ・ミー / Boss of Me

10. ダンシング・アウト・イン・スペース / Dancing Out In Space
11. ハウ・ダズ・ザ・グラス・グロウ? / How Does the Grass Grow?
12. セット・ザ・ワールド・オン・ファイア / (You Will) Set the World On Fire
13. ユー・フィール・ソー・ロンリー・ユー・クッド・ダイ / You Feel So Lonely You Could Die
14. ヒート / Heat
15. ソー・シー / So She *
16. プラン / Plan *
17. アイル・テイク・ユー・ゼア / I'll Take You There *
18. ゴッド・ブレス・ザ・ガール(日本盤ボーナストラック) / God Bless The Girl

Co-produced by David Bowie and Tony Visconti 
*:デラックス盤のみ収録

Who'll love David Bowie

(敬称略・五十音順)

僕はこの時を待っていた。
僕の人生を変えた男、BOWIEとの10年ぶりの再会。
そこには、過去をその肉体と楽曲の細胞にしっかりと刻み込み、
真っ直ぐに現在に立ち、
はっきりと「これから」を見つめている彼がいた。
力強く、切なく、そして美しい。
なんてすごいアルバムなんだろう。

ISSAY(DER ZIBET)

かくも長き不在の後、周到な準備の下に届いたボウイの新作はジャーマン・ロックとの化学変化で生まれたベルリン三部作期のようなハンマービートを主体とした硬質な仕上りとなった。思えばボウイは一貫し同時代音楽との絶妙な距離感を保ちながら、常にファンを期待と予測を裏切り続けることがアイデンティティとさえなっていたが、改めてこの新作をもって自らオルタナティブ・ミュージックのオリジネイターであることを証明して見せたのだ。さらには三部作に続く野心作「スケアリー・モンスターズ」の音とも符合するように聴こえるのは、自身の復帰を「トム大佐」の帰還になぞらえたボウイの演出か?

株式会社ジュネス 大平博基

70年代初頭にミカバンドをやっていた時期、僕たちは間違いなくボウイの影響を受けていた。
自分だけの世界に没頭しオーディエンスを無視するかのような演奏や歌唱スタイルのミュージシャンが大多数だった頃に、メークアップをして奇抜な衣装で登場し僕たちの度肝を抜いたジギー・スターダスト。長い髪を振り乱して汗をかいて演奏するだけじゃカッコ良くないって教えてくれた。
自己を客観視し、何が必要かを的確に判断するクレバーさ。常に新しいスタイルを模索し、実験的な音楽を創ろうとする貪欲さ。時代の先を進んでいるために受け入れられないことがあっても、精神の迷宮にはまり込む時があっても、全てを糧にし昇華する信念。
スーパースターはこうじゃないと。BOWIE IS BACK!

小原礼

ボクとボウイとの出会いは75年リリースの「ヤング・アメリカン」だ。ラジオにかじりついていた中学時代に聴いたボウイは大人の魅力で溢れ過ぎていて苦手だった。あれから何年経つだろう?名盤「ジギースターダスト」も未だにピンとこないが、この新作は何度も聴きたくなる。半世紀生きてやっとボウイの魅力がわかり始めた。これから時計の針を巻き戻して彼を辿ろう。楽しみが山積みだ。

加藤ひさし(ザ・コレクターズ)

一時は、新譜を聴ける事はもうないのだろうかと残念に思っていただけに、この復活は嬉しい。
しかも、最も好きな70年代のボウイがいる。
そして相変わらずの捻くれ進行で魅了してくれた。
やはり、無二の格好良さ。

吉川晃司

古く枯れた音、新しくキラキラした音。世の中に新しいマスターピースが誕生した。
ゴダールの映画で「未来は前、過去は後ろ」と台詞があった。
デイビッドのネクストデイは何処に向かう。過去を抱き、未来を見つめ今を紡ぐ。
あなたには何が見えている?それはきっとまたデイビッドが教えてくれるかな?
本作を聞いて解る事は、今ここにデイビッド、あなたがいるって事!
僕らの「前」にデイビッドが帰ってきた。
ねぇありがとう!本当に待っていたんだ、ずっとお腹がすいたままだったんだよ。

CANDY

彼は一体何者なのか?
天才?神?
今でもわかりませんが、少なくとも僕は彼は「天から落ちてきた男」だと思います。
奇抜なファッション、奇妙な歌声、美しいルックス、エキセントリックなパフォーマンス。彼の捉え方は色々ありますが 、彼は多分「神の使い」だと思います。音楽性が素晴らしく、あらゆるジャンルにマルチな才能を発揮してスゴイですが、さらにそのジャンルの中で新しい一面を世の中に披露し続けるというのが凄くカッコイイと思います。
この「あらゆるジャンルをやりつくす」というのも彼の魅力の一つです。
多くのアーティストは一つのジャンルに集中するケースが多いですが、彼はもはやグラムロックだけではなく、ジャズ,ロック,ディスコと可能な限り手を尽くし、何度も方向性を変えています。
なぜでしょう?
僕の勝手な想像ですが彼は音楽をもっといろんな人に知って欲しいからやっているんだと思います。彼は小さい頃から音楽と触れていたので、音楽の素晴らしさを色々な人達に知って欲しいと考えたんだと思います。ファッションも美しく、何を身につけても自分を「美しくみせる」と同時に、自分が作った音楽とシンクロさせて「芸術」を創り出す彼は、もう僕にとっての永遠のアーティスト。神。そして永遠のヒーローです。

栗原類

二人称の、過去の自分との対話。
人生で何が大事なのか?
平凡な日常、友情。
ただ生きていることの、かけがえのなさ。
老いてみなが通る道。

坂本龍一

一人暮らしをしている部屋でデヴィッドボウイの音楽を聴いていると、まるでこの世には自分とデヴィッドボウイの音楽しか存在しないように感じられてくる。
この素晴らしいニューアルバムも、一人占めしたい。ホーンセクションの音色や「Valentine's Day」のリフやメロディーなんて、もはや『David Bowie』としか言い表す事の出来ない唯一無二のものだし、こんなにも不気味な格好良さを放つ人は他に見たことが無い。

澤竜次(黒猫チェルシー)

当時日本ではDavid Bowieについての情報はほとんど無く、私がロンドンを訪問した時もそれ以前に彼の名前さえ聞いたことがありませんでした。しかし彼を見たとたん強い好奇心を抱きました。物語は1972年のロンドンから始まり、今でも写真で追い続けています。いつも感じることですが、彼のバイタリティーと想像力には刺激を受け続けています。

鋤田正義

あの宇宙人はビートルズ、ストーンズから遅れて70年代にやって来た。
土肝を抜かれる程の煌びやかな危ないルックスと凄まじいくらいのオーラに包まれて降臨したジキー。
まるでヤンキーのようにプラスチックソウルを歌った「ヤングアメリカン」。
ベルリンで実験するかのように生まれたポップスの歴史をアートに変えた「ロウ」
そして、アートとポップスの世界を彷徨う不可解な「ヒーローズ」

時代を弄ぶかのようなカメレオンマンの七変化は誰の追従も許さなかった。
常に新しい事こそがボウイだった。

80年代「レッツダンス」の爆発的ヒットでやっと時代がボウイに追いついたと思ったらそうじゃなかった。

あのNY9.11の追悼ライブで歌ったサイモン&ガーファンクルの「アメリカ」のカバーには痺れた。そしてその後に歌った「ヒーローズ」はロックを時代の高みに押し上げた
永遠のスタンダードだという事が改めて解った。

ダイアモンド✡ユカイ

全世界に放たれた突然の贈り物を、手を差しのべて受け取りました。
過去も未来も、現在の中に抱え込んで、「次の日」を生きて行く。
いつも人をびっくりさせる「Lovely surprise」が好きなデヴィッドは、10年間の沈黙の後に、ものすごく大きなサプライズをくれました。
このエナジーに巻き込まれて、これからも生きていきます。

高橋靖子

先行で発表された「Where Are We Now?」を聴いて、期待は高まるいっぽうだったところ、遂にニュー・アルバムが出ましたね。
まるで、若かりし頃の彼が蘇ったような、でも、やはりこれが今のデヴィッド・ボウイなんだと強烈に感じさせる空気感でいっぱいの世界。
タイトルも意味深で好き。

高橋幸宏

Bowie様
あなたがZiggy Stardustとして地球に降り立った時、僕の人生が決定してしまいました。そして、そんな人が世界中にいったい何人いるのでしょうか?
今、あなたから10年振りに届いたあなたの全身全霊を、こうして正座して幾度となく聴かせて頂いています。
そして思いました。やっぱり僕はあなたになりたい。

土屋昌巳

子供の頃に観た「怒りをこめてふり返れ」のMVのシュールさ(ストーリー性や整合性を一切無視)にノックアウトされた身としては、大好きなアルバム『ロジャー』の雰囲気も湛えた今作には胸アツな想い!
シャープなルックスに反して、実はフォークやブルースを通過したコンテンポラリーなソングライティングがボウイの魅力でもあるので、それがアヴァンギャルドな表現とハマった時はまさに無敵!
また永く付き合える一枚に出会えました。かつて「怒りをこめてふり返るな」と歌ったノエルの反応も気になるところです♬

日高央(THE STARBEMS/ex-BEAT CRUSADERS)

ちょうど彼が沈黙し始めた時期に僕らはイギリスに住み始めた。
至る所で彼の音楽的影響は観念的に散布されており、それがこの国の空気を形成する一部なのだと感じた。
そして今、現実のものとして帰ってきた彼の最新作。
原点回帰という名の焼き直しや、安易な新しい音楽性の導入などを一切感じさせず、彼の通ってきた歴史、国のポイント/ラインを改めて現代という空間の上に配置したような作品。
音楽家として、表現者として存分に感銘を受けました。

Bo Ningen

「Where Are We Now?」の最初のコードで記憶の扉が全開になった。
まるで遠い日の少年の自分と出会ったような、温もりと悲しみが心を刺した。
何かを追い求め続けてここまできたはずの私たちは、今どこにいるのだろう。
この「次の日」と題されたアルバムは、過去に未来を置き忘れてきた我々のタイムカプセル。
今を生きるしかない「ロックンロールという美学」の完全なる形だ。

布袋寅泰

このアルバムには、彼の65歳の全人生が歌いこまれている。
彼の音楽や世界観に類似するものを持ったアーティストはいない。
そのクリエイションから迷いは、いささかも感じられない。
恐らく、自分の人生の完成を追い求めて突き進んでいるのであろう。
そこには、多くの悲しみ、苦しみ、孤独もあるに違いないが、それらの葛藤を超えて新しい世界を追い求める彼の姿勢に、大いに共鳴するものである。
聴き終わった後、同世代を生きるクリエイターとしてさわやかな幸福感に満たされた。
同様に、このアルバムは、全世界の人々の心を鷲掴みにするに違いない。

山本寛斎

僕はデビッド・ボウイになりたかった。

もっと言えばデビッド・ボウイになるために、僕は「THE YELLOW MONKEY」を結成した。
と言っても過言ではない。
だけどイエロー・モンキーの活動が止まる2000年頃には、もうデビッド・ボウイになりたいと思わなくなっていた。
余談だがイエロー・モンキーの最後のライブは、2001年の東京ドームで、ボウイの誕生日でもある1月8日だった。

最後のシングルのプロデューサーはトニー・ヴィスコンティにお願いし、「プライマル。」というタイトルで「卒業」のことを歌った。

僕は「スケアリー・モンスターズ」までのボウイをよく聴いた。
僕の周りのコアなファンの方々が嫌う「レッツ・ダンス」も実は大好きだ。(最近は特に)
しかしその後のボウイの作品は、個人的にあまり好みではなく、さほど聴くことはなかった。

僕はソロアーティストになり、アメリカへ向かった。
デビッド・ボウイじゃない自分を探しに、、、。

それでも「ボウイのコンサートがある」と聞けば駆けつけた。
サダム・フセインが逮捕された日のニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのショーも観た。あの日、観客と大合唱した「アンダー・プレッシャー」は本当に感動的だった。

僕はソロアーティストとして、七転八倒していた。
そして10年の月日が流れた。
僕が1番多く所有するボウイの音源はあまり再生されることはなかった。
ボウイの活動も途絶えていた。

ボウイはもうこのまま引退しちゃうんだろうなと思っていた。
ルーリードやイギーも元気なのに、、、。

そして今年の1月8日。
あまり期待せずに(と言うより期待を抑えて)ボウイの新曲の動画を再生した。

……………

あの猫の瞳が歌っている。
音楽を聴いて久しぶりに涙が流れた。
こんなことってあっていいの?
デビッド・ボウイは二人いたの?

本物のデビッド・ボウイが帰ってきた。
超ヨーロッパじゃん!!!!!
ボウイはヨーロッパの男なのである。

おかえりなさい、僕のデビッド・ボウイ。

吉井和哉

デヴィッド・ボウイは私に、自分のやっていることが正しいと自信を持たせてくれたの。彼は人と違っていたわ。出る杭になって、流行に抗って、人々をあっと驚かせていたのよ。そういうところが大好きだったわ。ミュージシャンとしても天才よね。彼が単語の書いた紙切れを切り刻んだものから歌詞を作ると知って、自分でもやってみたことがあるの。彼の服装も、彼が「アラジン・セイン」、「シン・ホワイト・デューク」(痩せた青白き公爵)、「ジギー・スターダスト」になっていったのも大好きだったわ。演出も、夢も、ヴィジョンも、そして歌も、とにかく素晴らしい人よ。

レディー・ガガ

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誰も知らなかった。その時が来るのを。誰もが待っていた。その時が来るのを。 そして時はやってきた。10年ぶりのニュー・アルバム『ザ・ネクスト・デイ』を携えて。 誰もが引退だと思っていたデヴィッド・ボウイが、まさかのシングル「ホエア・アー・ウィ・ナウ?」を配信と同時に情報解禁という、 これまで例のないかたちで我々の前に姿を現し、そして今、こうして奇跡の10年ぶりの新作が眼前にある。これは真実だ―― デラックス・エディションはボーナストラック3曲に加え、国内盤のみのボーナストラック1曲、そして高品質Blu-specCD2仕様で、ボウイのアートの深遠に迫る!

移り変わり行くロック・シーンの中で常に孤高の存在として時代の先端を突き進む、デヴィッド・ボウイ。長い沈黙の中、何の前触れもなく、突如、自身の66回目の誕生日1月8日に2003年『リアリティ』以来10年ぶりのニュー・アルバム『ザ・ネクスト・デイ』のリリースを発表。シングル「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」のビデオもオフィシャルサイトでいきなり公開。この「事件」は全世界の音楽シーンで「驚き」と共に、大絶賛・称賛の声で迎えられた。

彼のニュー・シングル「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」が全世界119ヶ国のiTunes Storeにて一切の事前発表なく、配信開始され、同時に、デヴィッド・ボウイの10年ぶりにして30作目のスタジオ・アルバムとなる『ザ・ネクスト・デイ』もiTunes Storeで予約の受付が急遽開始。なんと24時間以内に27カ国の iTunes Store のトップアルバムチャートで1位まで駆け上った。

ニュー・アルバム『ザ・ネクスト・デイ』のプロデューサーは、ボウイの多くの作品を手掛けてきた、ジャケット写真も公開されたが、名盤『ヒーローズ』のジャケットの上に大胆に白枠で隠し新作タイトルTHE NEXT DAYの文字(HEROESの文字が消されている)をシンプルに載せた斬新なデザイン。果たして何を意味しているのか?

新曲「ホエア・アー・ウィー・ナウ?」のミュージック・ビデオについて

監督を務めたのはトニー・アウスラ。ボウイのベルリン時代を思わせる印象深い映像。ビデオの中で、半実写、半人形のデヴィッドが覗いているのは住んでいたアパートの下にある自動車修理工場の光景、そしてベルリンの街の荒涼とした風景。歌詞はベルリンの地名が次々に出てくる。Potzdamer Platz ポツダム広場/Dschungel クラブ/Nurnberger strasse ニュルンベルク通り/KaDeWe (カーデーヴェー、ヨーロッパ有数のデパート)/Gross Bose Brucke・・・etc. 一人の男がベルリンを彷徨い、過去を振り返りつつ “Where Are We Now?”(僕たちは今どこにいるのか)という疑問を投げかけ続ける。サウンドも歌詞も映像もまさにボウイらしい芸術的な作品。この楽曲を、既に全世界の有名人、ミュージシャン、他分野のアーティストやクリエイター、メディアが絶賛している。

各方面から絶賛の声

● Telegraph(UK):

「哀愁を帯びたこの新曲は、ロック史上最も人々を驚かせた、彼の帰還を祝すために最適なシングルと言えるだろう。
ボウイは、ポピュラー音楽文化が彼を最も必要としているタイミングに突然、最前線に帰ってきた。」

● Paul Trynka(作家):

「文化というものを創造した人々は何処へ行ってしまった?エルヴィスは死んだ。ビートルズももういない。
つまり、これはただのシングルじゃない。現代における、文化の創造だ」

● Tony Visconti(本作プロデューサー):

「デヴィッドにとってはすごく回想的な作品になってると思うんだ。間違いなくベルリン時代を振り返っていて、ある種の情感を呼び覚ますんだよね……とても憂いに満ちているんだ。このアルバムでデヴィッドがここまで内省的になっているのはこのトラックだけなんだよ。ほかの曲やアルバムそのものはかなりロック・アルバムという内容になってるから、なんでデヴィッドはこれだけスローで、でも美しいバラードをシングルに持ってきたんだろう、どういう狙いなんだろうって不思議に思ったんだよ。もっとどかんと行く曲を持ってくるべきじゃないかってね。でも、デヴィッドは自身の人生を絶妙に切り開いてきた人間だからね。この曲を持ってきたことは実に鋭い選択だったし、過去と未来を繋げる作品になっているし、きっとデヴィッドが次に作る作品は相当にこれまでとは違う作品になるんだろうなと予感させる内容なんだよ。

今度のアルバムの作品は、ここ2年ほどニューヨークの街を歩きながらヘッドフォンで聴いてきてるんだけど、どれひとつとして飽きた曲はないんだ。このアルバムの楽曲はずば抜けて力強くて美しいからね、デヴィッド・ボウイの典型的な名曲を期待している人ならこのアルバムで満足できるだろうし、革新的で新しい方向を探るデヴィッド・ボウイが聴きたい人もまたこのアルバムでそういう内容を堪能できるはずだと思うよ」

“ボウイを創った男”Tony Visconti トニー・ヴィスコンティについて

1969年、デヴィッド・ボウイとしてのデビューアルバム『スペース・オディティ』のプロデュースが、トニー・ヴィスコンティとボウイとの最初のコラボレーション・ワークだった。その後、次々と70年代彼をデヴィッド・ボウイたらしめたアルバム制作に携わるが、1980年に『スケアリー・モンスターズ』をリリースすると同時にボウイはヨーロッパに別れを告げるとともに、あまりに煌びやかだった‘70年代、そして自身の10年間に渡る“過去の清算”を行った。その後ボウイの興味はアメリカへと移っていったかに見え、ヴィスコンティと再びスタジオに入ることは一度もなかった。ヴィスコンティは70年代のボウイを創った重要人物であり、そのためボウイは彼自身がとらわれていた70年代を切り捨てるためにヴィスコンティとの決別を果たしたのだとも言われた。
2002年『ヒーザン』で再会。その後2003年『リアリティ』、そして新作『ザ・ネクスト・デイ』でもプロデュース。

<デヴィッド・ボウイ&トニー・ヴィスコンティ作品>

『スペース・オディティ』(1969) プロデュース
『世界を売った男』(1971) プロデュース
『ダイアモンドの犬』(1974) ストリングス
『デヴィッド・ボウイ・ライヴ』(1974) プロデュース
『ヤング・アメリカンズ』(1975) プロデュース
『ロウ』(1977) プロデュース
『ヒーローズ』(1977) プロデュース

『ステージ』(1978) プロデュース
『ロジャー』(1979) プロデュース
『スケアリー・モンスターズ』(1980) プロデュース
『ヒーザン』(2002) プロデュース
『リアリティ』(2003) プロデュース
『ザ・ネクスト・デイ』(2013) プロデュース

本作のアートワークについて

(ボウイの1977年のアルバム『Heroes』をアレンジしたデザイン)について、デザインを行なったジョナサン・バーンブルックがブログで語ってます(『ヒーザン』のデザイナー)
「できる限りミニマルで凝りすぎないデザインのカバーにしたかった。そこで『ヒーローズ』のジャケット写真を背景にして『ヒーローズ』のタイトル文字に線を引いて消し、新しいタイトルを載せることにした」
「なにか違うことをやりたかったんだ——あらゆることがやりつくされた分野ではとても難しいことだが、僕らはあえてこれを新しいと考えている。過去のデザインを使う場合、たいてい“リサイクル”や“グレーテスト・ヒッツ”を意味する。でも、僕らはタイトルの『The Next Day(次の日)』を引き合いに出している。それに『Heroes』のカヴァーを白い紙で覆ったのは、“いま現在の”素晴らしいポップ、もしくはロック・ミュージックのスピリットの象徴であり、過去を忘れる、または抹消することを意味する。僕らは過去を後に絶えず次の日へ向かって進み続けている。それしか選択がないからね」

「もしボウイのアルバムを破壊しようとするならば、たくさんの選択があるだろう。でも、これ(『ヒーローズ』)は最も崇拝されるアルバムの1つだし、破壊するならば本当にショックを与えるイメージである必要があった。『Heroes』はあらゆる点で至当だと考えた。それに、新作はとても観想的で、『Heroes』のカヴァーはこの雰囲気にマッチする。“Where Are We Now?”という曲は、壁が崩壊したときのベルリンといまのベルリンの比較だ。ボウイがベルリンで成した偉業についてはよく知られている。みんなにオリジナル・アルバムが作られたときと、いま現在について考えてもらいたいんだ」

デヴィッド・ボウイ カタログ 高品質BSCD2

デヴィッド・ボウイ10年ぶりの新作『THE NEXT DAY』に合わせてカタログを高品質BSCD2でリリース!2013年3月27日発売 【Blu-Spec CD2】 全5タイトル 各¥1,890(税込)

デヴィッド・ボウイ プロフィール

「ジャズ界におけるマイルス・デイビスのように、ボウイは自身のイノヴェーションを体現するだけでなく、文学、アート、ファッション、スタイル、性的探求、社会的主張が一体化したイディオムとしてのモダン・ロックのシンボルとなった」ローリング・ストーン誌

ボウイは自身の音楽を、ひとつの芸術形式としか説明できない境地へと高めた男である。

大概のポップ・アーティストよりも完全に深遠な原動力に突き動かされたデヴィッド・ボウイは、たぐいまれなサウンドと果てしないヴィジョンという非常に特別な世界に生きている。ロックの巨匠たちのマンネリズムに甘んじることを拒絶し、陳腐という屈辱的なネガティヴ・スパイラルに陥ることを避けながら、ボウイは好きな曲を好きなときに書いて演奏する。彼が参加しなかった「重要なイベント」は数え切れないほどあるものの、彼への興味は増すばかりだった。この男が今何をやっているのかという憶測が常に飛び交う中、デヴィッド・ジョーンズ(本名)こそが彼史上最大の再発明ではないかと考える者までいた。

デヴィッド・ロバート・ジョーンズは1947年1月8日、ブリクストンで生まれた。ロンドンのウェスト・エンド地区のジャズ・シーンに影響を受けた彼は13歳でサックスを手にし、ロニー・ロスに弟子入りを志願する。初期の彼はザ・コン・ラッズ、ザ・キング・ビーズ、ザ・マニッシュ・ボーイズ、ザ・ロウアー・サードなどで活動し、ポップスとモッズの華やかな世界の洗礼を受ける。1966年にはデヴィッド・ボウイと名乗るようになり、長髪の頭にはスターへの願望が渦巻いていた。ケネス・ピットとマネージャー契約を結んだ彼のキャリアは、大半が記憶に残らず終わったシングルと頭いっぱいのアイデアとともに始まった。チャートに登場するようになったのは1969年の伝説の作品『スペース・オディティ』(最高位:全英15位)が初めてだった。60年代後半の彼は音楽的に放浪しながら、メディア・ミックス、映画、マイム、チベット仏教、映画、恋愛においてエクスペリメンタルな日々を送った。最初に「デヴィッド・ボウイ」と名付けられ、続いて「マン・オブ・ワーズ、マン・オブ・ミュージック」と改題された『スペース・オディティ』は、ロンドンのアート・シーンから彼が受けた影響の全てに敬意を表した内容であり、才能溢れる若きソングライターの彼がロックンロール史上最高の作品を作り上げる前の状態が表れている。もっとも、世界が彼に追いつくにはそこからさらに数年かかることになるのだが。

■ 70年代初期

ボウイのファースト・アルバム『世界を売った男』(The Man Who Sold The World)』はひとつの作品として録音され、リスナーにとっては初めてのクリエイティヴな拡大解釈となった。本作におけるミック・ロンソンのギターはヘヴィ・メタルの誕生の瞬間と考えられることも多く、グラム・ロックの幸先の良い始まりであることは確実である。同作はマーキュリーから1971年4月にリリースされたがほとんど話題にならず、ボウイは同年春に初めて渡米し同作をプロモーションした。同年5月、当時の妻アンジェラとの間にダンカン・ゾウイ・ヘイウッド・ボウイが生まれている。

次にボウイと契約したのはRCAだった。同社との契約を完了させるために渡米したのち、彼はロンドンに戻り、ほぼ立て続けに2枚のアルバムを録音した。

『ハンキー・ドリー』はレーベルの注目を呼び契約へと繋がった6曲入りのデモから生まれており、「チェンジス」と「火星の生活」(Life On Mars)が収録されている。そのほぼ直後にリリースされ瞬く間に名盤となったのが『ジギー・スターダスト』(The Rise and Fall of Ziggy Stardust and The Spiders from Mars)である。

1972年は間違いなく、ボウイがポップスの力を垣間見るようになった年である。「GQ」誌編集者のディラン・ジョーンズは、1972年7月6日の「トップ・オブ・ザ・ポップス」出演という象徴的なできごとについてこう語っている。「このパフォーマンスを境にボウイはスターになり、ジギー・スターダストのペルソナを国民の意識に植えつけた」。外野の声は急に膨大になった。同年春ロンドンで初演された、彼自身の手によるロックンロール作品『ジギー・スターダスト』は当時最も鮮烈で画期的なライヴ・パフォーマンスとなり、その後に続いたブームが彼のスーパースター伝説の始まりだった。

1972年の夏は、ボウイにとってスタジオでも忙しい1年となった。ルー・リードのアルバム(『トランスフォーマー』)をプロデュースしたのである。影響力の強いこのアルバムは今日まで世界中の評論家たちを魅了し、ニューヨークのダーク・サイドを歌ったおとぎ話「ワイルド・サイドを歩け」(Walk on the Wild Side)というまさかの安打を放った。デヴィッドがイギー・アンド・ザ・ストゥージズの恐るべき影響力を持った作品『ロー・パワー』のプロデュースを共同で手がけたことも彼の最重要視すべきアーティストとしての名声に拍車をかけた。ボウイはイギーの後年の作品(『イディオット』と『ラスト・フォー・ライフ』)のプロデュースも手がけ、このデトロイト出身の悪魔と「チャイナ・ガール」と「レッツ・ダンス」を共作している。また、モット・ザ・フープルのプロデュースも担当した(『すべての若き野郎ども』[All The Young Dudes]。タイトル曲も彼が書いた)。

『ジギー』の全米ツアーは9月に始まり、ソールド・アウトとなった各公演では舞台劇にインスピレーションを得た和装、ミック・ロンソンの唸るギター、そしてオーディエンスをロックンロールの熱気へと駆り立てる、パフォーマンスへの大胆不敵なアプローチなどがみられた。1973年6月3日、彼はこのような宣言とともに自身の分身を突然葬り去ることになる。「今回のツアーで行った公演のうち、これが一番思い出に残るものになるだろう。今日はツアーの最終公演なだけでなく、最後の公演でもあるのだから」。この言葉にはバンドのメンバーはもとより、会場の誰もが驚いた。

『ジギー』フィーバーの真っ只中、1973年4月には全米ツアー中の経験にヒントを得て生まれた『アラジン・セイン』がリリースされた。「スターダスト」公演をひと段落させた彼は渡仏し、続くアルバムの制作にとりかかった。『ピンナップス』はボウイがギターにミック・ロンソン、プロデューサーにケン・スコットを迎えてレコーディングした最後のアルバムとなった。彼が1964~67年のロンドン時代に憧れていたアーティストたちへのトリビュート作である同作は1973年10月にリリースされた。1973年4月には「ブレードランナー」の彼によるプロトタイプと言えるプロジェクト『ダイアモンドの犬』(Diamond Dogs)をリリース。当時電波を賑わせ始めていたディスコ・ミュージックへの強烈なアンチテーゼとして、テンションと怒りをふんだんにたたえた作品だった。1974年夏にはこれまでの彼史上最大規模の全米ツアーを敢行し、巨大なセットと大胆な振り付けが話題となった。2枚組アルバム『デヴィッド・ライヴ』はフィラデルフィアのタワー・シアターにて録音されたものであり、このツアーの記念品としてとらえられている。

■ 70年代半ば

これら2作はボウイがアメリカで耳にした音楽への興味を垣間見せたが、正統派のソウルをユニークなイギリス的視点でとらえたという意味でオマージュに程遠いものだった。アメリカ音楽への傾倒が最も如実に現れているのが、1975年にリリースされた、リズミカルでソウル色の濃い『ヤング・アメリカン』だった。「フェイム」におけるジョン・レノンとのコラボレーションは、ニューヨークのエレクトリック・レディランド・スタジオでの臨時セッションによって生まれたものであり、発売直前にアルバムに収録された。結果、この曲はボウイにとって初めての全米1位を獲得したシングルとなった。同作にはもう一人、デヴィッドが発掘したシンガーがフィーチャーされているが、このシンガーは間もなくR&Bシンガーのルーサー・ヴァンドロスとして知られるようになる。彼はウィリー・ウィークス、アンディ・ニューマーク、デヴィッド・サンボーン、マイク・ガーソンら伝説の若手アメリカ人ミュージシャンたちと肩を並べ、バッキング・ヴォーカルで参加している。

同作が発売されて間もなく、デヴィッドはロサンゼルスに移住し、ニック・ローグのカルトSF映画の名作「地球に落ちてきた男」(The Man Who Fell To Earth)に主演した。彼は撮影が完了するや否やスタジオに戻り、ある種の紀行作といえる『ステイション・トゥ・ステイション』を録音した。続いて行われた「ホワイト・ライト」ツアーはエレクトロニック色の強いラインナップとなり、ベルトルト・ブレヒトにインスピレーションを得た芝居仕立てのものだった。1976年5月にはRCAからヒット曲集『チェンジスワンボウイ』(ChangesOneBowie)をリリース。ひとつの場所に長く留まることをしないデヴィッドは、ツアー終了後間もなくベルリンのシェーンベルク地区に移住した。

■ 70年代後期

動きのあるところにボウイがいるのか、それともボウイのいるところに動きがあるのか、時には判断しづらいこともあったが、次の作品がスタジオで制作されている間に歴史の地殻変動が起こりつつあったことは確かだった。デヴィッドとイギーが潜伏していたことで有名だった当時のベルリンは、鉄のカーテンが依然としてヨーロッパをはっきりと分断していることが他のどの都市よりも色濃かった。続いて制作された音楽は、ロンドンで浮上しつつあったパンク・シーンを背景とした雰囲気を作った。

彼の伝説は‘77年、彼らしくミステリアスなイギリスに凱旋公演を行い、イギーとキーボードを演奏したことで強化された。白黒の殺風景なステージ・ライトがボウイの知られざる圧倒的な影響力を浮き彫りにし、時代のムードに完璧にマッチした。やがて彼はふたたび表舞台に表れることになる。

ブライアン・イーノとトニー・ヴィスコンティとのコラボレーションにより録音された『ロウ』と『英雄夢語り』(Heroes)では、曲作りのプロセスに新しいアプローチを取り入れた。フランスのラジオ番組とのインタビューで彼はこう語っている。「ベルリンには大切なものしか書きたくないと思わせる不思議な力があるんだ。他のものは気にも留めなくなる。そして最終的には『ロウ』を生みだすんだ」。当時流行していたテーマはシュールレアリズムと実験。カット・アンド・ペーストの技術を独自のインストゥルメンテーションに取り入れることにより、今では優れたアンビエント情景として歓待されている作品を生み出した。1977年にリリースされた『ロウ』はRCAを困惑させ、大衆はこの力作をどう扱えばよいのか戸惑った。それにも関わらず、シングル「サウンド・アンド・ヴィジョン」は最終的に全英2位を獲得している。三部作の2作目となった『英雄夢語り』(Heroes)はギターのロバート・フリップが前面にフィーチャーされており、全体的にオプティミスティックな雰囲気を増したものとなった。同作のタイトル曲はベルリンの壁の前で逢瀬を楽しむ恋人たちを歌っており、彼の最も売れたシングルとなった。彼の映画進出第2作は「ジャスト・ア・ジゴロ」。本人曰く「自分が持っている32本のエルヴィス・プレスリーの映画を1本にまとめたような内容」だった。1978年3月には再度ツアーを行い、5月のオフ中にはフィラデルフィア管弦楽団との共演により「ピーターと狼」のナレーションを担当。これをきっかけに、彼は長年にわたって数多くの子供向けプロジェクトを絶えず支援することになる。(今では絶盤となったが、この作品はコレクターズ・アイテムの緑色のビニール盤としてリリースされた)。1978年9月には近年の全米ツアーの様子や“ベルリン”時代のライヴ音源をフィーチャーした『ステージ』をリリース。その後彼はスイスに移住したものの、異国情緒溢れるインドネシア、アフリカ、極東への熱を日に日に増した彼は頻繁に留守にしていた。

フランスで録音された『ロジャー』を1979年5月にリリースした彼は、その年の暮れにはまたスタジオに入っていた。同時期には初のブロードウェイ出演作となった「エレファント・マン」のリハーサルも始まった。同作は1980年9月に公開され、大絶賛を博している。

■ 80年代

同月には『スケアリー・モンスターズ』をリリース。また、ボウイが1981年にスイスで録音した「アンダー・プレッシャー」は、翌年クイーンのアルバム『ホット・スペース』に収録された。この曲は全英1位を獲得している。

この時期を過ぎると彼は世間から姿を消したものの、引き続き様々な映画プロジェクトに関わった。1982年には「ハンガー」の男性の主役を演じ、第2次世界大戦を舞台にした魅力的な物語「戦場のメリークリスマス」(Merry Christmas, Mr. Lawrence)ではセリアズ役としてトム・コンティや坂本龍一と共演し、映画「キャット・ピープル」のテーマ・ソングを手がけた。新しいベスト盤『チェンジストゥーボウイ』(ChangesTwoBowie)は1982年にリリースされた。

83年10月、ジギーとスパイダーズの最終公演のエネルギーをとらえたアルバム『ジギー・スターダスト:ザ・モーション・ピクチャー』がRCAから発売された。その後間もなく、1973年に撮影された同作の映画もリリースされている。

1983年にEMIと正式に契約すると、アルバム『レッツ・ダンス』のリリースに続き、世界を網羅する「シリアス・ムーンライト」ツアーを敢行。ボウイは再び見事に生まれ変わったのである。今回は究極のロック・スターとして絶妙のタイミングで、スタジアム・ロックやマス・メディアの触発によるメガ・スターダムの新時代の最前線に立つことになった。少なくとも700万枚を売り上げた『レッツ・ダンス』は彼のキャリア史上最も大きな成功を収めたアルバムとなるとともに、デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ボーイ・ジョージら数多くのアーティストに影響を与えた。

シックの司令塔ナイル・ロジャースのプロデュースによるこのアルバムは、恐らく彼のキャリア史上最もストレートなアルバムだったと思われる。同作はモータウン・スタイルの「モダン・ラヴ」、ダークでロマンティックな「チャイナ・ガール」(ベルリンでイギー・ポップと最初に録音した曲)、映画のテーマ曲「キャット・ピープル」のリメイクなど、優美な制作と非の打ちどころのない歌を擁するダンス・フロア・ナンバーが集められていた。これらの曲は艶のあるロマンティックなタイトル曲とともに、ラジオで大ヒットを博している。アップビートでロマンティックなテーマの延長線上に生まれたのが次の作品『トゥナイト』(1984年)だが、シングル「ラヴィング・ジ・エイリアン」はイスラム教徒とキリスト教徒の間の緊張という予言的なシナリオを描いている。

(幼い息子に「ヒーローズ」を捧げた)「ライヴ・エイド」への生出演、ミック・ジャガーとのデュエット・シングル、(ピーター・フランプトンがリード・ギターを務めた)舞台色の強い「グラス・スパイダー」ツアーにより、ボウイは高い人気を維持し続けたが、1988年には最大のサプライズをもたらす。 (スーピーの息子たちであるハントとトニーの)セイルス兄弟と、ボストンで発掘したホットなギタリスト、リーヴス・ガブレルスとの新バンド「ティン・マシーン」の結成という、またもや急旋回である。彼はこれがスーパースターのソロ・プロジェクトではなくフル・タイムのバンドであると頑なに主張した。百万枚以上の売り上げを記録した2枚のアルバム(と、限定発売のライヴ盤)において、ティン・マシーンは無駄なものをそぎ落としたギター・サウンド、新曲、そして真のサプライズ(ピクシーズのカヴァー!)少々により、モダンなオルタナティヴ・ライヴ・バンドとしての根性を発揮した。大いに気に入ったファンもいれば困惑したファンもいたため、ティン・マシーンは1992年には活動を休止してしまった。その間ボウイは『サウンド・アンド・ヴィジョン』を発売し、長年のコラボレーション相手だったエイドリアン・ブリューをリード・ギターに抜擢した初の本格的グレイテスト・ヒッツ・ツアーを行った。ファンたちは電話投票で演奏曲を決めるという斬新な動きもあった。このツアーでは、同名のアルバムがRykodiscレーベルから発売されている。

■ 90年代

1993年には待望のソロ・プロジェクト『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』と、「ジャンプ」と題されたロック界初のCD-ROM作品の一つがリリースされた。ナイル・ロジャースを再びプロデュースを手がけた同作は、ボウイの各時代をほぼすべて網羅したもの。『ロウ』時代のサウンドをダンスとハウス風にしトーンを明るくしたオープニングのインストゥルメンタル曲「ザ・ウェディング」(自身がモデルのイマンと結婚したことにインスピレーションを得て書かれた)、ファンキーな時代に回帰したシングル「ジャンプ・ゼイ・セイ」、『ジギー』時代の相棒ミック・ロンソンと待望の再コラボレーションを果たしたクリームの古い曲「アイ・フィール・フリー」(残念ながらロンソンはその後間もなく他界してしまった)などを擁した『ブラック・タイ・ホワイト・ノイズ』は全英アルバム・チャートで1位を獲得し、ボウイのクリエイティヴな好奇心が全く枯渇していないことをファンに保証した。

ボウイとイーノは1994年にはスタジオでコラボレーションを再開していた。その結果生まれたコンセプト・アルバム『アウトサイド』は、ヴァージン・レコーズとの新しい契約の一部としてリリースされた。この複雑なプロジェクトは、アートとしての人体への日々強さを増すこだわりと、西洋社会の異端化に言及したもの。パッケージアートを破壊したようなスタイル、耳に残る荒廃したサウンド、アートと殺人とテクノロジーが繰り広げる非線形のストーリーにより、『アウトサイド』は「セヴン」、「コピーキャット」などの映画や「Xファイル」「ミレニアム」などのテレビ番組の新しい感性に先駆けた作品だった。アウトサイダー・アート(注:芸術の専門教育を受けていない者が手がけた芸術作品のこと)とその感情の多重人格的な雰囲気に合わせ、ボウイはあらゆる声を使い分ける。あるときはメロドラマに出てくるクルーナーのように、またあるときはスタイリッシュなロンドナーとして、そしてあるときはベルリン時代を彷彿とさせる物静かで親密な世捨て人として。あるいは、アルバムの7人の人格を通じて様々に姿を変えている。「ハーツ・フィルシー・レッスン」は、同年最大のヒットを博し最もダークな映画となったデヴィッド・フィンチャーの「セヴン」のサウンドトラックに登場した。

1996年は非常に活動的なデヴィッド自身の基準から見ても特別にアクティヴな1年だった。スタイルやムードを難なく変え続け、ナイン・インチ・ネイルズをパートナーに全米ツアーを敢行し、サンフランシスコで行われたブリッジ・ベネフィット・コンサートではニール・ヤングやパール・ジャムと共にアコースティック・ライヴを披露した。ロスキル・フェスティヴァルとフェニックス・フェスティヴァルではヘッドライナーを務めるという輝かしい夏を過ごしたのち、10月25日にはVH1ファッション・アワーズでニュー・シングル「リトル・ワンダー」を初披露するという刺激的なパフォーマンスを行った。続いて発売された新作『アースリング』は全曲が非常にダイレクトで力強い作品だった。カヴァーはいささか非現実的なイギリスの田園風景をバックに、アレキサンダー・マックイーンのデザインしたユニオン・ジャック柄のコートをまとったデヴィッドをフィーチャーしたドラマティックなものだった。同作はこの年の夏のツアーを終えて身につけたダイナミクスから発展したもの。これらのプロジェクトに参加したバンドはベースとヴォーカルをゲイル・アン・ドーシー、キーボードをマイク・ガーソン、ギターとシンセサイザーをリーヴス・ガブレルス、ツアーの要となるドラムスをザカリー・アルフォードが担当した。アヴァンギャルドなドラムンベースの祭典であるこのアルバムには、全英トップ20ヒットとなった「リトル・ワンダー」や、年老いてゆくことへの痛烈な考察の曲「デッド・マン・ウォーキング」などが収録されている。

いつものように時代の最先端をゆくボウイは、1996年には史上初のインターネットによる「テリング・ライズ」のオンライン配信を行い、全米で35万人の若者たちにダウンロードされた。新時代が始まったというのに、技術革新に反対する当時のレコード会社の重役たちをはじめ、ほとんど誰もその影響力の大きさを実感していなかった。今回もまた、デヴィッドは世間から少なくとも10年は先を行っていたのだ。

翌1997年にはイーノとのコラボレーションによるシングル「アイム・アフレイド・オブ・アメリカンズ」を発表して物議を醸す。(「『ボーン・イン・ザ・USA』ほどアメリカ人に攻撃的な内容ではない」とボウイはコメントしている。)

ドム&ニックの手による、トレント・レズナーがグリニッジ・ヴィレッジでデヴィッドを追い掛け回すという自然体のビデオを伴ったこの曲は3ヶ月にわたって全米チャートに残り、プロジェクトの有終の美を飾った。タイトルとは裏腹に、ボウイがアメリカに与えた影響は大きくなっていったように思われた。彼はザ・スマッシング・パンプキンズ、マリリン・マンソン、ナイン・インチ・ネイルズなどから手本にされているのだ。また、彼はアメリカ映画への進出も果たしている。ゲイリー・オールドマン、クリストファー・ウォーケン、デニス・ホッパーと共演した映画「バスキア」では、自身が1972年に発表した曲「アンディ・ウォーホル」の中で永遠性を与えた人物の役を演じた。同作の監督は卓越したアメリカ人画家のジュリアン・シュナーベルである。

1997年1月、彼はスターたちが一同に会したニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでのパフォーマンスで50回目の誕生日を祝った。ステージにはルー・リード、ソニック・ユース、ロバート・スミス、ビリー・コーガン、フー・ファイターズ、フランク・ブラックら旧友が集い、全員がデヴィッドと演奏や歌を共にするという、彼の人生で最も印象深い公演となった。その後彼は再びワールド・ツアーに出、フェスティヴァルのヘッドライナーを15回以上、数え切れないほどの劇場やクラブを席巻し、最後をナイン・インチ・ネイルズとノー・ダウトとの南米スタジアム・ツアーで締めくくった。

既にアートや音楽の分野で高い評価を得ていたデヴィッドは、インターネットの征服に取り掛かっていた。1998年にはBowieNet (www.davidbowie.com)を解説。BowieNetは世界初のアーティストによるインターネット・サーヴィス・プロバイダーである。

1999年はボウイにとってこの上なく忙しい1年だった。今では高い評価を博す(WIRED賞の年間最優秀エンタテインメント・サイトにノミネートされている)ウェブサイトBowieNetでの活動の合間を縫って、デヴィッドは「天使といた夏」(Exhuming Mr. RiceまたはMr. Rice’s Secret)を制作し主役を演じた。また、同年にはウェブサイト「ローリング・ストーン・ラジオ」上に年中無休・24時間放送のデヴィッド・ボウイ・ラジオ・ネットワークを立ち上げた。この局のプレイリストは54曲からなり、デヴィッド本人が選曲と紹介を行う。5月にはボストンのバークリー音楽院から名誉博士号を授与された。この栄誉ある博士号は、過去にはB.B.キング、スティング、ジェームズ・テイラー、ディジー・ガレスピー、クインシー・ジョーンズに授与されている。デヴィッドはアートの世界にも進出し、ロンドンのコーク・ストリート・ギャラリーで行った個展は話題となり大成功するとともに高い評価を得た。その間を縫って、フランスではレジオンドヌール勲章を授与されている。

1999年はデヴィッドとプラシーボの関係が一層強まり繁栄した1年でもあった。毎年恒例のBRITアワード授与式において、デヴィッドはプラシーボを従えてマーク・ボランの名曲「20センチュリー・ボーイ」を演奏した。この演奏が大好評を博したことにより、ミラー紙ではこの曲のシングル・カットを求めるミニ・キャンペーンを展開。2組のアーティストが再び組むまでに時間はかからなかった。

7月にはザ・サン紙の投票により、デヴィッドがミック・ジャガーやノエル・ギャラガーを抑え、音楽界における20世紀最大のスターに選ばれた。同月にはQマガジンとその読者が選ぶ「今世紀最高のスター」の6位にもランクインしている。この投票において、デヴィッドは存命中のスターとしては3番目の地位を獲得した。

最も重要なのは、1999年10月に新録のスタジオ・アルバムが発売されたことである。デヴィッドの23枚目のソロ・アルバム『アワーズ…』は、『ハンキー・ドリー』時代のサウンドへの回帰を思わせた。長年のコラボレーション相手リーヴス・ガブレルスとふたりきりで前年曲作りが行われた『アワーズ』は、現時点でデヴィッドの最も自伝的なアルバムといえよう。「サーズデイズ・チャイルド」、「サヴァイヴ」、「ザ・ドリーマーズ」などが収録されている。アルバム全体に流れる喪失と後悔のテーマは、万人の心を打つものだろう。“時には胸が張り裂けるほど泣いて眠りにつく”(Sometimes I cry my heart to sleep)といったパーソナルな歌詞を通じ、デヴィッドは誰にも認識できる感情を駆り立てるのだ。この作品は想像やファンタジーの世界よりも実生活により根差した内容となっている。

『アワーズ』のツアー・スケジュールはデヴィッドが2000年度グラストンベリー・フェスティヴァル最終日のヘッドライナーを務め、推定15万人の前で演奏するという華々しい形で終わった。この公演は同フェスティヴァル史上最大の動員数を記録し、第1回開催時に数千人の前でホークウィンドと共演したときとは大違いだった。当時のバックステージでのケータリングは、(注:グラストンベリー・フェスティヴァル創始者の)マイケル・イーヴィスの自宅のキッチンから持ってきた牛乳とチーズだった。今回はバナーが風にはためく中、視界いっぱいに観衆が広がっていたのだ。21曲からなるセットリストは「ワイルド・イズ・ザ・ウィンド」に始まり、曖昧なタイトルの『アイム・アフレイド・オブ・アメリカンズ』で終わった。目覚ましい1年に相応しい締めくくりだった。

■ 2001年以降

『アワーズ…』キャンペーンが終わると、デヴィッドは世間の目を離れた日々を楽しみ、時折大規模なライヴ・パフォーマンスに出演する程度だった。彼は2年連続でニューヨークのカーネギー・ホールで行われたチベット・フリーダム・ハウス支援チャリティ・コンサートに登場し、フィリップ・グラス、パティ・スミス、モービー、ビースティ・ボーイズのアダム・ヤウチら著名人とともに出演者に名を連ね、チベットの自由化を推進するキャンペーンを支援した。デヴィッドは各年全く毛色の異なるパフォーマンスを披露。1年目はギターにモービーを起用し、「ヒーローズ」のロック色の強いヴァージョンを演奏し、翌年はベースにアダム・ヤウチを迎え、めったに演奏しない「スペース・オディティ」をストリングス主導で演奏した。

デヴィッド・ボウイの人生において“静かな”時期は存在しない。この時期も、デヴィッドはイギリスの流行発信紙NMEで史上最も影響力の高いアーティストに選出されるという栄誉にあずかった。それに加え、人生を変える新たな出来事が起こる。デヴィッドとイマンの第一子、アレクサンドリア・ザフラ・ジョーンズの誕生である。ボウイはこの時期を利用して父親業を満喫するとともに、のちに新作の基盤となった一連の曲を書いた。

9月11日、デヴィッドはニューヨークに滞在していた。その後デヴィッドはマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」に出演し、短くも感情に訴えるパフォーマンスを披露することにより、第2の故郷へのサポートを表明した。彼はサイモン&ガーファンクルの名曲「アメリカ」の生々しいカヴァーでパフォーマンスを開始し、続いて自身の曲「ヒーローズ」で元気を与えて回った。この公演を観た者やライヴ放送をテレビで見た者たちは、デヴィッドが演奏した両方の曲で表現した感傷に心を動かされずにはいられなかった。

その感動的な夜に続き、デヴィッドが取り掛かり始めていた一連の新しい曲がトニー・ヴィスコンティとの再結集に繋がったことが大々的に報道された。それらの曲はのちに新作『ヒーザン』として結実する。音楽業界に対する展望が変わった彼は、自身のレーベルIsoレコーズを立ち上げる。同レーベルはこの度米コロンビア・レコーズ(ソニー・ミュージック)と提携し、彼のキャリア史上最も熱望されたものになるであろうアルバムをリリースすることになった。

「トニーとはもう何年も、また一緒にやりたいという話をしていたんだ」とデヴィッドは語る。「私も彼も長い間かなり大きな責務があったから、何かを一緒にやろうとしてもその余地が全くなかった。去年の春に少し余裕ができたから、マーク・プラティと自分のバンドのメンバーに、暫く姿を消してトニーと一緒にやるからと話した。みんなよく理解してくれたよ。私との付き合いが長いから、そのうちまた一緒にやることになると分かってくれたんだ」

かくしてボウイとヴィスコンティはニューヨーク州ウッドストック郊外で、現在位置報告とでも呼べるものを作り始めた。「ギタリストのデヴィッド・トーンに、アレーア(Allaire)という名前の新しいスタジオがもうすぐできるって聞いたから、作業を始める数週間前にトニーと下見に行った。そこではTボーン・バーネットがナタリー・マーチャントと作業していたんだ。人里離れた静かな、インスピレーションをくれる所だよ。なんてすてきなところを見つけたんだろうと思ったね」

その環境にあまりに魅了されたデヴィッドは、アルバムが完成するまでニューヨークに戻ってこなかった。敷地内に家族と暮らし、共用のダイニング・ルームで食事していたのだ。『ヒーザン』が佳境に入った頃、早起きで知られる彼はその習慣を有効に活用する。「朝は大抵6時に起きて、スタジオで過ごすんだ。コード構造やメロディや言葉をまとめたり、使いたいサウンドを探したりね。そうすると10時くらいにトニーが入ってきて、ふたりで仕事に取りかかるんだ」

ボウイの旧友ピート・タウンゼントが「スロー・バーン」でギターを弾いてアルバムに参加しているが、「スケアリー・モンスターズ(アンド・スーパー・クリープス)」を聴いた方なら憶えておいでのように、これは彼にとってボウイと初めてのコラボレーションではない。フー・ファイターズのデイヴ・グロールが、ニール・ヤングのカヴァー曲「アイヴ・ビーン・ウェイティング」のリード・ギターを演奏している。

さらに驚くべきことには、『ヒーザン』には記憶する限りボウイの楽器演奏が最も多く収められている。「自分が演奏したものが完成作にたくさん残っていたのは嬉しかったね。ピクシーズのカヴァー「カクタス」で、自分の作ったループの上でドラムスを叩いているのは私なんだ。というか、あの曲ではベース以外全ての楽器を演奏しているんだよ。ベースはトニー・ヴィスコンティが弾いた。『ヒーザン』のシンセサイザーのほぼ全部と、ピアノの一部も私が弾いているんだ」

そしてタイトルは?「ヒーザニズム(異教の信仰)というのは心理状態の一つなんだ」とボウイは言う。「自分の世界が見えない人について言っている、と解釈してもらっていい。彼の心には光がないんだ。彼は無意識のうちに破壊する。彼は神の存在を感じることができない、21世紀の男なんだ。『ヒーザン』にはテーマもコンセプトもなく、曲が並んでいるだけだけれど、私のテーマのあるアルバムと同じくらい強い筋が通っている」。

『ヒーザン』に収録された「スロー・バーン」や「アフレイド」など一部の新曲は、2002年5月上旬にニューヨークで行われたロバート・デニーロ主催のトライベッカ映画祭において初めて公に放送された。この映画祭はダウンタウン地区のスピリットを再び盛り上げるために企画されたものだった。

『ヒーザン』のリリースに伴い、ヨーロッパやアメリカでは一連のコンサートが行われた。中でも特筆すべきが、デヴィッドがキュレーターを務め、イギリスで2週間にわたって行われたメルトダウン芸術祭。ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイ、スエード、コメディアンのハリー・ヒル、コールドプレイ、テレヴィジョン、ザ・ダンディ・ウォーホルズら多彩なアーティストが名を連ねた。デヴィッドはフェスティヴァルの一貫として『ロウ』と『ヒーザン』を全曲演奏した。

1年後、世界最大のインタラクティヴな「衛星ライヴ」イベントと同時にアルバム『リアリティ』が発売され、その後熱狂的に歓迎され大絶賛されたワールド・ツアー「ア・リアリティ・ツアー」が行われた。

チャリティ事業にたまに顔をみせるかパパラッチに1-2枚写真を撮られた以外、デヴィッドは非常に目立たない生活を送っていたが、「セントラル・パーク2005」ではアーケイド・ファイアと共演し、2006年9月にはニューヨークのラジオ・シティ・ホールでもコンサートを行うという、2度の見事なパフォーマンスを披露した。それには誰もが目を覚ましたに違いない。2006年にはピンク・フロイドの伝説的存在、デイヴ・ギルモアと共に、ピンク・フロイドの最も有名な2曲、「アーノルド・レーン」と「コンフォタブリー・ナム」をロイヤル・アルバート・ホールで演奏した。ボウイはまた、2006年にはクリス・ノーラン監督による「プレステージ」(興行収入1位)で俳優にも復帰している。

2007年5月、ボウイはニューヨークで10日に渡って行われた「ハイ・ライン」芸術音楽祭のキュレーターを務めた。6月にはアートとテクノロジーの境界線を押し広げた実績をたたえられ、第11回ウェビー賞(「インターネット界のアカデミー賞」として知られる)の「ウェビー生涯功労賞」を受賞。2007年後半には、リッキー・ジャーヴェイス監督の人気HBOドラマ「エキストラ:スターに近づけ!」(Extras)で本人役を演じている。

2012年には『ジギー・スターダスト』やデヴィッド自身の与えた影響の大きさを記念し、ロンドンのへドン通りに額が飾られた。式典にはメディアとファンが大勢詰めかけ、ゲイリー・ケンプの感動的なスピーチで歓迎された。「ジギーは究極の救世主のようなロック・スターでした。そしてデヴィッド・ボウイは彼と共に、男と女の境界線だけでなく、彼自身とその創作物との境界線を曖昧にすることに成功したのです。ボウイは私たちを救いにやってくるジギーでした。そして私は彼にホックとアイライナーとヘアカットを買ってあげたのです。ファンの少年がやるべき正しい行為だったと思います。とても光栄に思っています」

2012年にはデヴィッド・ボウイ・アーカイヴが栄誉あるヴィクトリア&アルバート美術館に対し、V&Aの単独キュレーションによる展示会を許可するという前代未聞の発表をし、さらに期待が高まることになる。デヴィッド・ボウイ・アーカイヴに美術館がアクセスを許可されるのはこれが初めてとなる。

■ 2013年

2013年1月8日。ファンファーレも特になく突然、デヴィッド・ボウイは誰も全く予想していなかった行動に出た。「ホェア・アー・ウィー・ナウ?」と題されたシングルをリリースし、新作が3月に発売されることを発表したのだ。アルバム『ザ・ネクスト・デイ』はボウイにとって30枚目のアルバムであり、10年目の新作となる。

最もミステリアスで重要度の高いこのアーティストは、次の章を確実に執筆し終えているのだ。

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