アル・クーパーの証言:『偶然のオルガン・プレイヤー、アル・クーパーの記憶から』(英文ブックレットより)

ニューヨークのセヴンス・アヴェニューにあるコロンビアのスタジオAで、「ライク・ア・ローリング・ストーン」の最終完成形が録音されたのは、1965年6月16日の午後3時半ごろのことだった。じつはそれはテイク4として録音されたものであり、続いて10回のテイクを重ねたあと、結局、テイク4が最終形にふさわしいということになったのだ。テイク4は、6分以上ある歌詞の全部を歌いきった初めてのテイクだった。

最後にプロデューサーのトム・ウィルソンの提案で、みんなでプレイバックを聞いた。左にあるのはそのときの写真で、左から右へ、トム・ウィルソン、エンジニア助手のピーター・デュリア(ウィルソンのうしろ)、マネジャーのアルバート・グロスマン、パブリッシャーのアーティー・モーグル、ボブ、カメラマンのサンディー・スパイザー、アシスタントのヴィニー・ファスコ(顔が半分切れている)、そしてマルボロを吸っているのが、このわたしだ。

当時のわたしは、曲を書くのと同時にスタジオ・ギタリストの仕事をやっていた。トム・ウィルソンとはよく知る間柄で、仲が良かった。ウィルソンはわたしがディラン・ファンだと知って、ゲスト見学者としてわたしをこのセッションに呼んでくれた。わたしは21歳で、この年の前半、わたしが共作した曲(ゲイリー・ルイス・アンド・ザ・プレイボーイズの「恋のダイヤモンド・リング」)が約1か月間、チャートにランクされていた。スタジオ・ギタリストとして声がかかり、レコーディングに参加することもあった。クイーンズで近くに住んでいたハーヴィ・ブルックスといっしょに、さまざまなバンドの一員として、トップ40の音楽を聞かせるクラブで演奏することも多かった。1年前には、ニューヨーク万博のカルーセル・パークと呼ばれる場所で演奏をし、チップをたっぷり稼いだ。その仕事を持ってきてくれたハーヴィには、大きな借りがあった。

当時のわたしは音楽業界で食べていく道を探し、10パーセントの才能と90パーセントの野心がわたしの行動の源だった。だから、ディランのセッションに早めに行き、ギターを電源につなぎ、トム・ウィルソンに対しては、ギタリストとして呼ばれたと思いこんでいるふりをしようと決めた。

セッションは午後1時から始まる予定だったので、わたしは12時ごろにスタジオに行き、不埒な野心を実行に移した。ミュージシャンのなかには、ほかのセッションで顔見知りになった者もいたから、不審に思われることはなかった。

ウォーミングアップをしていると、突然ドアが開いて、ディランがギタリストを連れて入ってきた。ギタリストがわたしの隣に座り、挨拶をし、ギターをつないでウォーミングアップを始めた。その男が、自分とおなじぐらいの年齢に見えるのに、ものすごいギターを弾くのを聞いて、わたしは驚くと同時に意気消沈した。そしてすぐにたばこを吸いに行くふりをして、ギターをケースにしまって本来の居場所のコントロール・ルームにひきあげた。トム・ウィルソンが来る前に起こったことだったから、わたしの野心的試みが失敗したのを彼に知られることはなかった。そのギタリストこそ、わたしはそれまで聞いたことがなかったのだが、シカゴから来たマイク・ブルームフィールドだった。ブルームフィールドはポール・バターフィールド・ブルース・バンドに参加したばかりで、1枚目のアルバムが近く発売されることになっていた。

実際のセッションがはじまって1時間が経ったころ、ポール・グリフィンが指示されてオルガンからピアノに移動した。チャンス到来だった。わたしは子供のころからキーボードを弾いていたが、エルヴィス・プレスリーの登場以来、ギターに熱中していた。そこでトム・ウィルソンに「トム、ぼくにオルガンを弾かせてくれないか? すごくいいフレーズが浮かんだ」と話しかけたか。ほんとうは何も浮かんでなどおらず、頭のなかにあるのはただ野心だけだった。ウィルソンが「おまえはオルガン弾きじゃない、ギタリストだよ」と言ったとき、電話がかかってきて、彼が電話で話しだした。わたしは勝手に「ノーとは言われなかった」と理解し、スタジオに入ってオルガンの前に座った。

ハモンドB3オルガンは、起動の手順がややこしい。そのやりかたなどまったく知らなかったが、ありがたいことにポール・グリフィンはオルガンを停止させていなかった。電話中のウィルソンは、わたしがスタジオに入り、オルガンの席に座るのを見ていなかった。そして電話を終えると、マイクを通して「よし、ボブ、みんなそろった。まず1回やってプレイバックを聞かせるから、そのあとで考えろ」と言った。
(わたしがオルガンの前にいるのをみつけて、ウィルソンのことばが途切れた)

「そこでいったい何をしてる?」

わたしがギタリストであるのを知っているミュージシャンたちが笑いだした。ウィルソンもおなじように笑った。このとき彼は言うべきだった。「そのなまっちろいケツをあげて、コントロールのお席にもどっていただけませんか?」と。

しかしウィルソンはやさしい人間だったし、ほかのミュージシャンたちにわたしがなぜそんなことをしているかを説明する手間を省きたかったのだろう。笑いながら「いいよ、スタンバイ、CO86446『ライク・ア・ローリング・ストーン』リメイク・テイク1」と言った。

こうしてわたしのオルガン奏者としての道がはじまった。3回目のテイクのあと、初めて全曲を通して録音がおこなわれ、わたしは奇跡的にオルガンのすごいパートを思いついた。そのあと全員でコントロール・ルームに移り、6分35秒のプレイバックを聞いた。プレイバックがはじまって1分ほどしたとき、ディランがエンジニアのロイ・ハリーに「オルガンの音を大きくして」と言った。ウィルソンは即座に「ボブ、それを弾いているのはオルガン・プレイヤーじゃない」と注意した。ボブは「そんなことはかまわない。オルガンを大きくしろ」と言った。これでオルガンがわたしの一生の仕事になった。

このあと、さらに10回のテイクが録音されたが、どれもテンポが速すぎて、結局テイク4を最終マスターとすることになった。その日、ほかの曲の録音はなかったが、ボブがアルバムのほかの曲にも加わるようにと言いにきた。数日してわたしはディランに頼んでベースのハーヴィ・ブルックスを雇ってもらった。この数年後、マイルス・デイヴィスは『ビッチェズ・ブリュー』でブルックスを使うことになる。万博のときの借りは、これであいこになった。つぎの日、なぜかはわからないが、プロデューサーがウィルソンからボブ・ジョンストンに替わり、その後ウィルソンがディランのプロデュースに関わることはなかった。その後のトム・ウィルソンの活躍については、このライナーノートの別の箇所で語られている。

50年後、71歳になったいま、自分が歩んできた音楽の道を振りかえると、それがどれだけ幸運なものであったのか、どれだけ特異なものであったのかに驚愕する。そして友だちだから、わたしが喜ぶだろうからという理由でボブ・ディランのセッションに招いてくれたトム・ウィルソンに感謝する。

アル・クーパー