翌1977年には念願のフィル・ラモーンをプロデューサーに迎え「ストレンジャー」を完成、発表。一気にスター街道を走り出すことになる。このアルバムに収録した“素顔のままで”は、翌年1978年の第21回グラミー賞に於いてRecord Of The Year(最優秀レコード)とSong Of The Year(最優秀楽曲賞)を受賞し、名実とともにトップ・スターの仲間入りを果たした。この年ビリーは地元N.Y.はマジソン・スクエア・ガーデン3回を含む全米ツアーも大成功。サクセスストーリーのスタートである。4月には初来日し東京/大阪の2公演も実現。その勢いはそのまま「ニューヨーク52番街」リリース(1978年)へ、このアルバムは見事ビリー初の全米No.1ヒットとなり、第22回グラミー賞でもAlbum Of The Year(最優秀アルバム)、Best Rock Male Vocal Performance(最優秀男性歌手賞)を受賞。1979年Billboardアルバム年間チャート第1位。1979年5月2度目の来日。
1980年、世界のロック、ポップ・シーンが様変わりする中、7作目にあたるアルバム「グラス・ハウス」を発表。ピアノ・マン〜ロックン・ローラー、ビリー・ジョエルの心意気を示し、アルバムはたちまちプラチナ・ディスクとなり、シングル「ロックン・ロールは最高さ」の全米No,1を含む4曲の大ヒットがうまれる。ビリーは又もや'80年グラミー賞最優秀男性歌手賞を獲得。フィル・ラモーンも最優秀プロデューサー賞を受賞となる。ビリーのコンサート・ツアーも初めて中近東まで及び、マジソン・スクエア・ガーデン5回公演も即日完売となった。
1981年にはアメリカ以外の国でのアルバム・セールスが500万枚を越え、クリスタル・グローブ賞をCBSレコードから贈られる。同年4月3度目の来日公演、さらに過去の作品群を新たに今日化した初のライブ・アルバム「ソングス・イン・ジ・アティック」を9月に発表し、「さよならハリウッド」等がシングル・ヒットとなり蘇った。
1982年4月ビリーはオートバイ事故を起こし、右親指と左手首を骨折、世界中のファンを心配させたが、9月には、現代アメリカが抱える社会的問題にもストレートに切り込んだ最も濃厚でハード・コアな作品「ナイロン・カーテン」を発表する。1982年10月に世界初のCDが発売されたが、それは「ニューヨーク52番街」(35DP1)であった。1983年8月「イノセント・マン」を発表、ファースト・シングル「あの娘にアタック」の全米No.1ヒットを皮切りに連続6枚のシングル・ヒットを放ち、ベスト・セラーになりアメリカだけでも当時600万枚以上のセールスを記録。翌1984年5月4度目の来日。この時同伴したクリスティと1985年3月に結婚。(12月には長女アレクサ・レイ誕生。94年に離婚)1985年4月に新曲2曲を含む初の2枚組ベスト・アルバム「ビリー・ザ・ベスト」発表。当時300万枚を超えるセールスを記録した。
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