90年代プレイバック
『ダンスブーム』

〜とりあえずEverybody Dance Now!

新時代の主役もダンス!ダンス!! ダンス!!! 

ビジュアルの80年代からリズム&グルーヴの90年代へ。
ボビ男からハマ男へバトンTOUCH THIS !?
 70年代のディスコ、80年代全盛のユーロビートを経たダンスムーヴメント。80年代の後半になると、R&Bグルーヴに軽快なストリート要素を加味したニュー・ジャック・スウィング(以下NJS)がアメリカで大流行し、文字通りダンス・ミュージックシーンも新しい時代を迎えようとしていた。このNJSはたったひとりの男が世界に広めたといっても過言ではない。日本でもデビュー当初から巷ではCOOL IT NOWだった元ニュー・エディションのボビー・ブラウンだ。このBOBBYスタイルに憧れて側頭部を刈り込んだいわゆる“ボビ男”が全国で多発したのは80年代も終わろうとしていた頃だった。オールバックなジョージ・マイケルや、金髪双子のBROSカットは残念ながら不似合いな“日本人顔”だが(個人差あり)、この刈り込みカットには違和感を抱かなかったのは気のせい……いや、それなりに順応していたのだ(もちろん個人差あり)。

 Every Little Step〜な勢いで、世界中でダンス・ミュージックがメインストリーム・ミュージックへと移行、そのまま90年代に突入。新時代に突入すると流行に敏感なシティボーイズ(死語)たちは、ルーズなパンツに履き替えて“カニダンス”を始めた。U CAN’T TOUCH THISなMCハマーに成りすました“ハマ男”となって都会に出没したのだ。タレント職業として本当に成りすましたコント赤信号のMCコミヤ(小宮孝泰)は“ケンタイキ”とカヴァーしていたけれど、アルバムに収録した「ユー・キャント・タッチ・ディス(カラオケ)」の本家でもないのにオケの意味はいまだにわからない……。
Everybody Dance Nowの大号令!
 そんななか、C+C ミュージック・ファクトリー は、ダンスカルチャーをダメ押しするかのようにそのものズバリ!「エヴリバディ・ダンス・ナウ」と死ぬほど分かりやすい超アッパーなダンスビートで世界中を踊らせた。あの甲高いEverybody dance now!の号令を聴くだけで、腰がくねってしまう方は、後期バブル偏差値は相当高いはずだが、歌っている女性のことは知っているだろうか? 80年代半ばに「ハレルヤ・ハリケーン」を日本中のディスコで流行させたウェザー・ガールズの巨漢“ボディスペシャル”マーサだ。90年代に入り、前面に出ることはないゴースト・メイン・ヴォーカリストとして世界中を“エヴリバディ・ダンス・ナウ!”させたことは実はあまり知られていない。

 さて。 僕(1970年生まれ)は当時『PUMP』(ソニー・マガジンズ・休刊)というブラックカルチャー誌の駆け出し編集者だった(創刊号の表紙はネナ・チェリー)。コーヒーもロックもアメリカン、心はいつもニュージャー!をモットーとしてしていたのに、そんな音楽趣味とは正反対の雑誌を見習いで編んでいた。当時、住んでいた横浜のマンションの3階がロイヤルホスト。毎夜、終電で帰宅するとこの駐車場でダンスに明け暮れるボーイズたちがいた。歳は2つか3つ下という感じ。まだ毛が生えたばかりのチェリー編集者なりに、やはり好奇心からも声をかけずにいられない。

「君たちは、なんでいつもここで踊ってるの?」
「なんでって……練習してるんだよ」
「文化祭? 大会? ……DADA?」
「ダンス甲子園だよ(笑)」

 流行りモノ大好きな高校生ダンサーたちは『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の名物コーナー「ダンス甲子園」の出場を目指して、路上でダンスに練習に明け暮れていたのだ。テレビ番組と言えばZOOを送り出した『DADA』のダンスコンテストに取材に行ったこともあったけど、一番足を運んだのは、やはりGOLD、MZA有明、ジュリアナ東京などのウォーターフロント(死語かな)地区のクラブ。アナログLP盤のジャケットだけを借りに使いっパシりしたこともあったけれど、編集長T氏(70年代はアース,ウィンド&ファイアーなど担当した洋楽ディレクター)の名前を出すと可愛がってもらえる大人の応対はいろんな意味で勉強になった。その雑誌『PUMP』は’92年に休刊してしまったが、その直後にハイパーテクノに傾倒したジュリアナTOKYOが社会現象に。“お立ち台”“ジュリ扇”取材ができなかったこともやっぱりいろんな意味で悔しかったなぁ……と、今でも帰宅時にJR田町駅を通過すると想い出す。40歳。
シーンを揺るがすレゲエミュージック
 さて、僕の想い出はさておき。ここからは“ダンス”を軸にした90年代の洋楽シーンを(真面目に)辿ってみたい。ロックはまた別の機会にね。

 36歳の若さで他界したレゲエの神様ボブ・マーリィの没後10周年にあたる’91年。照らし合わせたかのようにミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」をレゲエ・カヴァーし、日本で爆発的ヒットを記録したのが“UKラヴァースの女王”ジャネット・ケイだった。’85年から開催されたレゲエ・サン・スプラッシュは、’94年のジャネット・ケイ出演時には人気がピークに達した。これが夏の風物詩となったロック野外フェスの先駆けとなったことは言うまでもない。

 一方、80年代から続くサントラバブルは、’93年、ホイットニー・ヒューストンが主演した特大ヒット『ボディガード』をピークにいい意味ではじけ飛び、本来の映画と音楽のほど良い距離感を取り戻しつつあった。映画『クール・ランニング』でジャマイカの重鎮、ジミー・クリフが歌う「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ」は、文字どおりクールなBGMとなってスクリーンを彩った。ジャネット・ケイ以降のレゲエブームと相まって日本でもこの曲はFMを中心に大ヒット。
純粋な洋楽ヒットはFM発!
 その『クール・ランニング』にも参加し注目を浴びたジャマイカ発のダイアナ・キングは新しいレゲエの女王として日本のシーンにむかえられようとしていた。そんな彼女の大ブレイク曲となる「シャイ・ガイ」(’95年、ウィル・スミス主演映画『バッドボーイズ』のメインテーマとして使用された)を後押ししたのはテレビでも洋楽誌でもなく、ラジオだった。90年代に入ると日本各地で開局されたFMステーションのDJたちが、米英チャートとは関係なくお気に入りのナンバーをヘヴィローテーションするようになった。♪マーシ・マーシ・マーシ の連呼が耳に残るこのポップ・レゲエ・ナンバーは、多くのDJやリスナーに愛されJ-WAVE、FM802をはじめとする全国のFMチャートの首位を独走し、収録アルバム『タファー・ザン・ラヴ』も見事にミリオンセラーとなった。その後、スキャットマン・ジョン、スウィートボックス、メイヤ、ミー・アンド・マイ、ルトリシア・マクニールらが日本の電波をジャックしていくことになる。
フージーズはR&Bのひとつの到達点
 90年代のメインストリームとなったヒップホップが日常的な生活に溶け込んでくるなか、フージーズの2ndアルバム『ザ・スコア』が発売された。レゲエ、R&B、ジャズ、ソウル、サンプルを融合させながらも自然なグルーヴ観をかもし出した音楽は、まさにヒップホップのひとつの到達を示唆した。いわゆるオーガニック・トラックと、ローリン・ヒル、ワイクリフ・ジョン、プラーズの三者三様のヴォーカルが戯れる様は、まさにストリート・ミュージックの醍醐味を再認識させるにも十分だった。『ザ・スコア』は全世界で1800万枚のセールスを記録し、フージーズは最も成功したヒップ・ホップ・グループとして歴史に名前を刻んだ。ローリン・ヒル(’97年にジュリア・ロバーツとメル・ギブソンが共演した映画『陰謀のセオリー』エンディング・テーマに、彼女が歌う「君の瞳に恋してる」が使用された)は98年にボブ・マーリーの息子ローアン・マーリーとの間に長男をもうけている。同年発表のソロ・アルバム『ミスエデュケーション』も全世界で1200万枚のセールスを記録し、日本国内でも特大ヒットとなった。
オーガニックソウルな歌姫デズリー。
 女性ヴォーカルでは忘れられないのが、92年にデビューしたイギリスを代表する黒人女性シンガー、デズリーだ。アルト・ヴォイスでクールながらも力強い母性的な慈愛に満ちたヴォーカルは90年代の男性リスナーを癒した。しかし、デズリーを支持したファンの多くはやはり女性だった。「暗闇が恐いの/幽霊なんて見たくない/だったらトーストを食べながら夜のニュースを観ていたいの」と女性の日常生活や願望を描いた「ライフ」は、まさに収録アルバム名の“スーパーナチュラル(等身大)”を体現する90年代の女性像だった。女性らしさは失わないけれど、男性には媚びず女性のプライドは絶対に捨てない……。エリカ・バドゥ、インディア・アリーのように、柔らかさの中に強い意志を誇示するシンガーが時を同じくして人気を集めるようになると、彼女たちはいつしか“オーガニック・ソウル”と呼ばれようになりひとつの人気ジャンルとして定着していく(なお、デズリーが歌った「キッシング・ユー」は'96年映画『ロミオ&ジュリエット』で、レオナルド・ディカプリオとクレア・デインズのラヴ・シーンを印象的に彩った)。
スペース・カウボーイの地球制覇!
 スティーヴィー・ワンダーらの70年代ソウル/ファンクに影響を受けたジェイ・ケイは、80年代の終わりからロンドンで流行したアシッド・ジャズを昇華した独自サウンドを放ちながら“ジャミロクワイ”と名のり、彗星のごとくクラブシーンに登場した。有名な帽子を被ったメディシンマン・ロゴをあしらった3rdアルバム『トラヴェリング・ウィズアウト・ムーヴィング』でその人気は大爆発。日本ではFM各局がこぞってオンエア、CMにも使用されたことによりシングル「ヴァーチャル・インサニティ」を口ずさむリスナーが全国に出現。この1曲でジャミロクワイは90年代最大の洋楽アーティストに躍り出た。奇抜なミュージック・ビデオも多くの視聴者から支持され、アメリカは新しい時代をむかえたと宣言しMTVビデオ・ミュージックアワードの4部門で讃えた。保守的なグラミー賞でさえも時代への迎合と揶揄されながらも、やはりジェイ・ケイに栄光の蓄音機型トロフィーを手渡している。ジャミロクワイは1998年には、ハリウッド版ゴジラ(『GODZILLA』)のメインテーマも担当している。
90年代の最終兵器BIG BEATがフロアに鳴り響く!
 音楽のリズム部分をサンプリングして作るフレーズ=ブレイクビーツを世に広めたのはイギリスのケミカル・ブラザーズだった。その旧友ノーマン・クックはさらにテクノ、ハウス、トランス、ロックのオイシイ部分を引っこ抜いてビッグビートを完成させ、ファットボーイ・スリムの名のもとにフロア・アンセム「ロッカフェラー・スカンク」(この曲は、99年の映画『シーズ・オール・ザット』のクライマックスとなるプロムのダンスシーンで印象的にフィーチャーされた)を世に放った。元々DJだったノーマン・クックらしい“楽しく踊れればいいじゃん!”の確信犯デジタル・サウンドは、クラブのみならず一般リスナーにも共感を呼び、瞬く間に世界の音楽シーンの最先端に躍り出る。いつしかロック+テクノ=デジタルロックと大雑把に括られることになるが、それはそれで言葉の意味は間違っていなかった……。
文/安川達也(1970年生まれ)
90年代洋楽アルバムセールスTOP30
タイトル アーティスト 国内発売年月日 国内売上
(万枚)
1 The Ones マライア・キャリー '98.11.18 280万枚
2  青春の輝き〜ベスト・
オブ・カーペンターズ
カーペターズ '95.11.10 233万枚
3 デイドリーム マライア・キャリー '94.09.30 220万枚
4 メリー・クリスマス マライア・キャリー '94.10.29 209万枚
5 ボディガード ホイットニー・ヒューストンほか '92.12.05 188万枚
6  MUSIC BOX マライア・キャリー '93.09.11 158万枚
7 スキャットマンズ・ワールド スキャットマン・ジョン '95.08.23 156万枚
8 タイタニック セリーヌ・ディオンほか '97.12.12 141万枚
9 ザ・ベリー・ベスト セリーヌ・ディオン '99.11.13 123万枚
10 クロス・ロード ボン・ジョヴィ '94.10.07 115万枚
11  MAX マライア・キャリーほか '94.11.11 114万枚
12 ペイント・ザ・スカイ〜 ザ・ベスト・オブ・エンヤ '97.11.10 106万枚
13 レッツ・トーク・アバウト・ラヴ セリーヌ・ディオン '97.11.15 103万枚
14 バタフライ マライア・キャリー '97.09.10 102万枚
15 タファー・ザン・ラヴ ダイアナ・キング '95.04.27 97万枚
16 NOW2 ジャネット・ジャクソンほか '94.11.09 91万枚
17 BEST OF エリック・クラプトン '99.09.29 88万枚
18 NOW1 UB40ほか '93.12.08 87万枚
19 ラブ・ストーリーズ セリーヌ・ディオン '93.12.02 85万枚
20 ジーズ・デイズ ボン・ジョヴィ '95.06.12 82万枚
21 Millennium バックストリート・ボーイズ '99.04.28 81万枚
22 ミスエデュケーション ローレン・ヒル '98.08.19 79万枚
23 MAX6 Best Hits In The World '99 リッキー・マーティン '99.12.04 76万枚
24 シンクロナイズド ジャミロクワイ '99.06.07 73万枚
25 トラべリング・ウィズアウト・ムービング〜
ジャミロクワイと旅で出よう〜
ジャミロクワイ '96.09.11 72万枚
26 FALLING INTO YOU セリーヌ・ディオン '96.03.14 71万枚
27 スーパーユーロビート VOL.100
ANNIVERSARY SPECIAL REQUEST COUNTDOWN 100!!
デイヴ・ロジャース '96.08.14 70万枚
28 リッキー・マーティン
〜ヒア・アイ・アム〜
リッキー・マーティン '99.06.19 69万枚
29 ドゥビ・ドゥビ ミー・アンド・マイ '96.02.10 64万枚
30 グレイテスト・ヒッツ シンディ・ローパー '94.09.08 62万枚
【筆者作成】