80年代プレイバック 1
1981年 MTV世代
ビジュアルを制する者はシーンをも制する、煌びやかな時代の幕開け!一日中ミュージックビデオを流し続ける『MTV』の登場で始まった80年代。
たった1日の音楽革命!米国ケーブルTV発『MTV』。
 
  マイケル・ジャクソン、ワム!、シンディ・ローパー、『フットルース』、『トップガン』……。80年代の洋楽ヒット曲を耳にして最初に思い浮かべる“絵”は何だろうか?LPジャケット、レコード針、貸レコの看板、カセットテープ、手作りインデックス、ウォークマン……。筆者は想いを寄せていた女の子の笑顔も浮かんできたりもするが、ま、R35なら一つや二つは当てはまるに違いない。 それでも、80年代リアルタイム世代が、当時の洋楽ヒット曲を耳にして、最初に思い浮かべる“絵”はやはりミュージックビデオ(以下MV)ではないだろうか。70年代の終わりからプロモーション手段として使われはじめてきたMV。80年代のエンタメは、このMVの発展抜きでは絶対に語れない。

1981年8月1日に、一日中MVを流し続ける『MTV』が、アメリカのケーブルテレビで開局した。記念すべき放映1曲目は、バグルスの「ラジオ・スターの悲劇(Video Killed The Radio Star)」。ビデオの出現により仕事を奪われたアーティストの哀歌だった。 全米ヒットの法則=ラジオ×地道なライブ活動をたった一日で覆したこの革命は、以降世界共通の絶対的な音楽プロモーション手段となった。イギリスのアーティストたちは映像を通じてユーザーの目に届けさえすれば、楽器を持って大西洋を渡る必要はなくなった デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ワム!らがアメリカで大成功を収めた現象は、60年代に大挙北米大陸に押し寄せたビートルズ、ストーンズ以来の“第2次ブリティッシュインヴェイジョン”ともてはやされ、多くのスターがブラウン管から生まれていくことになる。
洋楽テレビ番組のパイオニア 『ベストヒットUSA』登場!
 
  アメリカの『MTV』開局と同年、1981年にテレビ朝日系でスタートしたのが『ベストヒットUSA』だった。VJ小林克也の流暢な英語による軽快なトークが、本場アメリカの空気を伝え、土曜深夜の人気番組となった。LPジャケがパタパタと将棋倒しするオープニング、最新全米チャート(RADIO&RECORDS誌)カウントダウン、来日アーティストをスタジオに招いての直インタビュー、過去の音楽シーンを振り返る「タイムマシーン」などツボをおさえた内容は、深夜のワクワク感をかきたて、情報源が少なかったあの時代の洋楽勉強にも役だった。VJ(ビデオジョッキー)という聞き慣れない呼び名を教えてくれたのもじつはこの番組だったりもする。

僕らの国でのMVシーンはどうだったのか?80年代は国内ミュージシャンがMVを作る概念がまだ生まれておらず(技術と受け皿も皆無に等しく)、純国産のロックMV第一号は、佐野元春が代々木公園で白い息を吐きながら歌う「ヤングブラッズ」が登場する1985年まで待たなくてはならなかった。一方、MVが充実している分だけ、洋楽番組は『ベストヒットUSA』を筆頭に賑やかだった。ピーター・バラカンの切り口が鋭い『ポッパーズMTV』(TBS系)、週末にMVを3時間半もひたすらオンエアし続けた『SONY MUSIC TV』(TVK系)、現在も放送しているVJ中村真理の『ビルボードトップ40』(TVK)、美人ハーフVJでマイケル富岡を弟に持つシャーリー富岡の『ファンキートマト』(TVK)、萩原健太&光岡ディオンの司会による『MTVジャパン』(TBS系)、日替わりパーソナリティが番組進行する『TOKIO ROCK TV』(テレビ東京系)……横ハマっこの筆者が視聴可能だった洋楽番組は思い出しただけ並べてみても、ご覧のとおり、ズラリ。気がつけば『MTV』とMVが同義語となっていた。
ブラック or ホワイトを超越したMTVの申し子マイケル・ジャクソン
 
  1982年12月、マイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』が発売された。ポール・マッカートニーとのデュエットの第1弾シングル「ガール・イズ・マイン」はMVこそなかったがその話題性と高質な楽曲だけで大ヒットとなった。しかし、マイケル・ジャクソンは水面下でMV制作に勤しんでいた。そして、むかえた1983年3月2日。それまで事実上白人ロック専門放送局として認知されていアメリカ『MTV』が初めて黒人マイケル・ジャクソンのMVを放映した。第2弾シングル「ビリー・ジーン」だ。瞬く間に全米で大反響を呼び、さらに2か月後のMOTOWNパーティでの“ムーンウォーク”初披露が人気に拍車をかけた。当時としては破格の10万ドルの制作費を費やした第3弾シングル「今夜はビート・イット」がオンエアされた夏ごろには、マイケルは全米お茶の間のスーパースターとなり、『スリラー』は当時だけで全世界3000万枚という史上空前のセールスを突破した。

さらに、アルバムからの最後のカットシングル「スリラー」は、ジョン・ランディス監督を迎え120万ドルをかけて短編ショートフィルム「スリラー」を完成させた。文字通り、もはやMVを超えた映画だった。この話題作を本邦初公開した『ベストヒットUSA』は、深夜放送にも関わらず驚異的な視聴率をマークしたことは当然だ。マイケルの大成功により、80年代はMVがカッコ良くなければ、ヒットは生まれないという法則が完全確立するなか、2人の女性スターも誕生する。
あなたはマドンナ派?それともシンディ派??
 
  盛況の『MTV』は1984年に2人の女性スターを世に輩出した。魅惑的なシースルードレスをまとい、カメラ目線で「ヴァージンの最初のタッチのようにね」と挑発し、女であることを前面に押し出したのが25歳のマドンナだった。一方、赤とオレンジのまだら刈り上げヘアーで、スカートの裾をまくり上げながら「Girls Just Want To Have Fun(女の子だって楽しくやりたいのよ!)」とコケティッシュな魅力を振りまいていたのがすでに30歳を超えていたシンディ・ローパーだった。シンディにいたってはまったく無名だった売れないシンガーのデビューアルバム『She's So Unusual(彼女は普通じゃない)』の意を最大限にMVで具現化させたことに成功している。彼女はこの年だけで4枚のシングルをチャートTOP5に送り込んでいるが、ラジオのオンエアとレコードセールス以上に『MTV』にリクエストが殺到したことは、まさにビジュアル時代の寵児といえるだろう。日本でもマドンナ派か、シンディ派という特集がテレビ番組や雑誌で組まれていたことが懐かしい。

現在、復活した『ベストヒットUSA』の「タイムマシーン」で紹介されるMVの多くが80年代の映像というのは感慨深い。あの頃は勉強や発見だったが、今では復習と“新発見”だ。「映像を制する者は音楽をも制する」と言われたあの時代に、映像配信などがあったらどんなに良かったか、と思うことも少なくない。が、鮮明なデジタル記録以上の、自分だけのアナログなセピア記憶を楽しむことも悪くはない……。2009年夏、マイケルは、ロンドンの復活ステージであの華麗なムーンウォークを魅せてくれるのだろうか。
文/安川達也