プロフィール
スペイン発。マイアミ経由、日本上陸。
天才フラメンコ・ギタリストにして日本人の血が
流れるポップスターの登場!

伝統的な闘牛士一家の血をひくギタリストの父と
日本人の母を持つ異色のシンガー・ソングライター!

わずか4歳にしてコンサートを行い、11歳にしてフラメンコ・ギタリストのソリストとしてレコーディングを経験。スペイン作家協会史上最年少の作曲家、ライート。ルチアーノ・パヴァロッティからリッキー・マーティンまで、共演、共作したアーティストは数知れず。2度のラテン・グラミー受に輝く。その名はライート。


持って生まれたものがどう開花するか。これは子供が成長する過程で人々が頻繁に抱く疑問である。そしてこの答えは、徐々に、おのずと見えてくるものだ。だが、ごく少ないケースではあるが、例外もある。そのスター性が、生まれながらに歴然とそこにある場合があるからだ。マドリード出身のライート(25)は、まさにそんな一人。音楽的才能を持ち合わせた両親のもとで育ったライートは、ロマ族のフラメンコ・ギタリストである父親に導かれて、一家の伝統を引き継ぐ。そんなレイトーは、わずか4歳でコンサートを開催。11歳のころにはすでに国際的に知られるコンクール「ブラボ・ブラビシモ」で優勝を果たし、フラメンコ・ギターのソリストとしてのデビュー・アルバムを録音し(マックス・ミュージックからリリース)、そしてスペイン作家編集制作社協会(SGAE)史上最年少の作曲家になっていた。

こうした功績の裏には当然、計り知れない努力がある。ライートは放課後、毎日6時間、ギターの練習に打ち込んだ。このように長い練習時間や、そのために犠牲となった子供としての時間について聞かれると、ライートは決まって次のように答える。「練習はもちろんきつい。僕にとっても、父にとってもね。でも僕はこの人生を選んだんだ。初めて舞台に立って、観客の愛情を感じたとき、これは価値があるって思った。この感覚を僕は何よりも愛している」そう言って、ライートは微笑む。

ライートが14歳のとき、父親は一家をマイアミに移住させる。そしてライートをフロリダズ・マグッネト・スクール・プログラムの一環である、ニュー・ワールド・スクール・オブ・ザ・アーツに通わせる。そこでライートは、ギターの技術を磨くだけでなく、マイアミで聞かれるあらゆるジャンルの音楽を吸収する。さまざまな音楽の影響は、彼がコラボレートしてきた一連のアーティストたちの華やかな名前――ルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、パコ・デ・ルシア、フリオ・イグレシアス、パウリナ・ルビオ、リッキー・マーティン(『ハレオ』を共作)、ダビッド・ビスバル『リョラレ・ラス・ペナス <君のために苦悩、そしてクライ>』を共作)――を見ても明らかだ。また共作した『ハレオ』と『ジョラレ・ラス・ペナス』は、ラテン・グラミー賞で計3部門のノミネートを獲得し、うち2部門を受賞。今日のレイトーの音楽は、ヒップポップやラテンポップ、レゲーやレゲトンなどの影響が明らかで、それらは彼が愛するフラメンコに見事に織り込まれている。

ライートは2006年9月26日、米国とプエルトリコで、ラテンポップのジャンルでは初のアルバムとなる『ライート』を発表(インディーズレーベル、サウスビート・レコーズ)。本作を聞いた名プロデューサーのキケ・サンタンデールは、ライートにこう言った。「神は地上に降り立ち、魔法の棒で君に触れた」ライートはこのアルバムを、テレビ番組「デスピエルタ・アメリカ」や「エスカンダロ」、「カダ・ディア」などでプロモートしてきた。またライートのシングル・アルバム『メ・ファルタ』は、「ラテン・トロピカル・チャート」や「コンテンポラリー・ポップ・チャート」のトップ40を上昇していった。またライートは最近、アメリカン・エアライン・アリーナで開催されたフェスティバル、「アモール・ア・ラ・ムシカ」やニューヨークで行われた「ロス・グラミー・ラティーノス」にも参加。また2006年11月にはロリータ・フローレスとロサリオ・フローレス姉妹のコンサートにゲスト出演した。さらに最近作曲した作品は、2007年にリリースされるチャヤンの最新アルバムに含まれることになっている。


父はロマ族、母は日本人

ライートは、その見事なギターの腕前から、母国スペインではわずか4歳ですでに知られていた。そんな彼は11歳で最初のアルバムを録音。ギターを賢明にかき鳴らすこの小さなスターについて伝えない雑誌はなかった。
 
だがライート本人にとっては、子供の頃に獲得した名声はすべて家族のおかげだった。

ロマ族の父親と、日本人の母親の間に生まれたライートは、幼い頃から音楽に囲まれて育った。父親のアントニオ・ラヨは、フラメンコ文化と密接な関係にある闘牛士の一家出身のギタリストだ。一方、母親のナエコ・ギボは、沖縄出身のフラメンコ・ダンサーだった。
「母は妊娠5ヵ月の頃、メキシコで踊っていた…。家族はみんな音楽と深く関わっている」とライートは語る。
そんな彼は、15歳のとき、自分の音楽の方向性を探るために家族とマイアミに移住。
 
「父は、僕が英語を学ぶためにも、また子供として、そしてアーティストとして成長するためにも移住したほうがいいと考えた」

ライートはニュー・ワールド・スクール・オブ・ザ・アーツに入学する。数年後、自分の音楽の方向性を見つけたライートは、ポップでありながらフラメンコのエッセンスを残した初アルバムをリリース。
 
多様なリズムが溶け合うこのアルバムは、ライートをギタリストとしてだけでなく、シンガーソングライターとして世に知らせるものだ。曲は、恋人たちの日常を歌ったものだが、そこにはユーモアのエッセンスが含まれる。

「ある状況の別の側面を見て、それをうんと面白く伝えるのが好きなんだ。だって日々の煩わしさから少し逃れる一番いい方法は、音楽を聞くことだからね」