COMPLETE SHOGUN 解説

 70年代中盤、洋楽シーンではフュージョン〜クロスオーヴァー・ミュージックが台頭し、それと連携してスタジオ・ミュージシャンの存在が注目された。スタッフ、リー・リトナー&ジェントル・ソウツ、クルセイダーズ、ラリー・カールトンなどが人気を得て、ベスト・セラーを記録。来日公演も頻繁に行われた。1978年になると、ボズ・スキャッグスのバックなどで演奏していたプレイヤー達がTOTOを結成。全米ヒット・チャートを荒らし始める。それまでのスタジオ・ミュージシャンがインストゥルメンタル中心だったのに対し、TOTOはバンド内にシンガーを抱え、ポップ・ロックをプレイ。日本でも幅広い支持を受けて、一躍トップ・グループに踊り出た。
 日本に於けるスタジオ・ミュージシャン・グループといえば、はっぴいえんどの流れを汲むティン・パン・アレイ(細野晴臣・鈴木茂・松任谷正隆・林立夫、後に佐藤博も)が先駆者だろう。彼らはシンガー・ソングライターから歌謡アイドルに至るまで、実に多くのアーティストをバックアップ。グループ名義でも2枚のアルバムを残した。でも彼らの場合、バンドというよりはあくまでもサウンド・ユニット。メンバーがリーダー作を出すことはあっても、グループとして表舞台に立つことには消極的だった。ほかにもクロスオーバー系グループは幾つか存在したが、いわゆるポップ・ロック的な指向性を持ち、スタジオ・ミュージシャン集団であることとグループの成功を同時に成し遂げたのは、このSHOGUNだけである。
 SHOGUNのデビューは1979年4月のこと。当時は都会的で洗練された音楽が求められ、洋楽ではソフト&メロウ、邦楽ではシティ・ポップスと呼ばれたサウンドが注目を浴びていた。これらはポップ・ミュージックをベースにしながら、そこにロック、ジャズ、ソウルなど様々なサウンド・エレメントを融合させるという、極めて高度な音楽性を持っている。しかしそれを小難しく聴かせるのではなく、あくまで心地よく親しみやすいように仕上げていく。そこにこの手のアーティストの真骨頂があった。こうした音を作るのに、優れた手腕を持つスタジオ・ミュージシャンは不可欠。アーティストやスタッフの要望を瞬時に理解し、音に反映させていく。それには演奏技術が高いのはもちろん、広範な音楽的素養、メロディや楽曲に対する豊かな感性とセンスなど、多くのことが求められた。SHOGUNのメンバーは、そんな厳しいスタジオ・ワークの世界で、それぞれ10年以上のキャリアを重ねてきている。でもそれだけに、他人の音楽を演奏するのではなく、自分自身の音楽を演りたい。そんな思いを募らせていたのだろう。SHOGUNの結成は、ある種時代の要請に応えたものだが、彼ら自身にとっては必然的な行動だったのだと思う。
 
 それではメンバーの6人を紹介しておこう。
●芳野藤丸(Guitar,Vocal)
 1951年4月21日 北海道生まれ
キャプテン(つのだ)ひろ&スペース・バンド、ジョー山中グループや西城秀樹のバックで活躍。ハワイの人気バンド、カラパナに加入を要請されたこともある敏腕ギタリスト。1976年、西城秀樹のバック・バンドを中心にした“藤丸バンド”で『BGM』を、翌77年にはSHOGUNの前身となる“ONE LINE BAND”で『YELLOW MAGIC』を発表している。SHOGUN解散後の'82年に、初のソロ・アルバム『YOSHINO FUJIMAL』を制作。そのセッションで意気投合した元スペクトラムの渡辺直樹(b)や岡本敦男(ds)、同じスタジオ・ミュージシャンの松下誠(g)らとAB'Sを結成し、4作品をリリースした。それと並行して、'83年にもソロ作『ROMANTIC GUYS』を出している。またイギリスでは、マルチ・プレイヤーのニコ・ラムズデンと組んだ“バーニング・ザ・ブリッジ”名義の作品もある。最近はエヴァンゲリオンの音楽を手掛けたり、西城秀樹のバンドに復帰してミュージカル・ディレクターをつとめるほか、作曲・編曲・プロデュースなどでも多忙な日々を送っている。
●ケーシー・デヴィッド・ランキン(Guitar,Vocal)
 1946年7月10日 米カンサス州生まれ
アメリカで音楽活動を開始。バンドで来日を果たした際、日本の魅力に取りつかれ、1971年から東京へ定住している。'74年に、のちにパラシュートで活躍するマイク・ダン(b)らと在日外国人グループ“SHORT HOPE”を結成。3年後にレコード・デビューを果たした。『SILVER MOON』('81年)など、ソロ・アルバムも出している。映画・アニメ・CM音楽の制作と、現在も多方面で活躍中。
●大谷和夫(Keyboards)
 1946年6月18日 東京都生まれ
フリーのジャズ・マンとしてコンボ等を経験。その一方で西城秀樹、山口百恵、中森明菜、館ひろし、角松敏生、小野正利など、多くのアーティストにミュージシャン/アレンジャーとして関わっている。特に編曲の才能は高く評価されており、アーティストの間でもたくさんの信奉者を抱える。
●長岡“ミッチー”道夫(Bass, Vocal)
 1949年11月7日 神奈川県生まれ
横田敏昭バンドを経て、スタジオ・ミュージシャンとして活動開始。大滝詠一、松山千春、アン・ルイス、中森明菜などと共演している。1986年には斉藤ノブ(perc)や松原正樹(g)、新川博(kyd)らとスタジオ・ミュージシャン・グループ“AKA-GUY”を結成。アルバムを残した。最近はプロデュースも手掛けるようになり、映画や舞台の音楽監督に進出。活動分野も多彩になっている。
●山木秀夫(Drums)
 1952年12月22日 熊本県生まれ
元々ハード・ロック出身でありながら、ジャズ・ピアニストの市川秀夫や佐藤允彦らのバンドでジャズ・ドラムを身につけた、日本屈指の名ドラマーの一人。SHOGUN以降も、清水靖晃(sax)、笹路正徳(kyd)らの先鋭的ユニット“マライア”に参加したり、渡辺香津美(g)のKAZUMI BANDで活躍するなど、常に国内の音楽シーンをリードする活動を続けている。
●中島御(Perc)
 1943年1月20日 中国生まれ
猪股猛、市川秀夫、松岡直也らのバンドで腕を磨いてきたトップ・パーカッション奏者の一人。主にジャズ・シーンやスタジオの現場で活動している。
 この6人のうち、ケーシー・ランキンを除く5人が前身となるONE LINE BANDのメンバー。その前の藤丸バンドは、実質的に芳野藤丸のソロ・プロジェクトであり、レコーディングのために集まった急造グループだった。したがってバンド活動はほとんど行われず、藤丸は次第にいつもスタジオで顔を合わせていた大谷や山木、ミッチー長岡らと一緒に行動するようになる。そこにアルバム制作の話が舞い込んできて、ONE LINE BANDがスタート。1978年に『YELLOW MAGIC』がリリースされた。藤丸バンドのサウンドはそのまま藤丸個人の嗜好であり、セルジオ・メンデスのようなA&Mサウンドやフュージョン創世期のCTIの影響が強く表れた。でもONE LINE BANDでは他のメンバーの意見も反映され、もっと重いソウルフルなバンド・サウンドになっている。ここにケーシー・ランキンが加入。前後して、テレビ局から「俺たちは天使だ!」の音楽を担当しないか、というオファーが入ってきた。ところが所属していたレコード会社との間にトラブルが勃発。結局レコード会社を移籍して、“SHOGUN”の名で再デビューを果たすことになる。この名前は、当時世界的に高く評価されていた黒澤映画「将軍」に由来したもの。イージーな選択とはいえ、世界に通用するバンドを目指すという決意表明が伝わるピッタリの名でもあった。事実彼らは1stアルバム発表後、米の人気TV番組「アメリカン・バンド・スタンド」に初の日本人アーティストとして出演している。
 さて『コンプリートSHOGUN』と題された本作では、彼らの全マテリアルを、リリース順に収録している。まず、彼らの全リリースをまとめてみよう。
1979年4月 シングル『男達のメロディー/サタデー・サイクロン』
1979年6月 1stアルバム『SHOGUN』
1979年9月 シングル『走れ!オールドマン/風に抱かれて』
1979年10月 シングル『LONELY MAN/BAD CITY』
1979年12月 2ndアルバム『ROTATION』
1980年2月 シングル『友よ、心に風はあるか/Do It To Yourself』
1980年7月 3rdアルバム『YOU'RE THE ONE』
1980年11月 シングル『美しきライバル/時の線路(レール)』※芳野藤丸名義
 この中で今回初CD化となるのは、藤丸のソロ名義で発表された<美しきライバル>と<時の線路(レール)>の2曲である。<美しきライバル>は、TVドラマ「痛快!ピッカピカ社員」の挿入歌だった。アレンジは双方とも大谷の手に拠るが、敢えてSHOGUNの名を外したのは何故だろう。時期的には最終作のあとの発売だが、藤丸の名前にはシッカリ“(SHOGUN)”というクレジットも記されている。つまり、独立へ向けた野心作ではなさそうだ。単純に録音時にメンバーが揃わなかったとか、やや歌謡ロック的なコンセプトがSHOGUNのイメージにそぐわないという、そんな理由だろうか。とはいえ、自分のような藤丸フリークにとってはたいへん興味深く、嬉しいCD化に違いない。
 それでは、SHOGUNの魅力はどこにあるのだろう。先にも述べたように、70年代中盤から後半にかけて流行した“ソフト&メロウ”系のサウンドは、ジャンル・ミックスが進んだハイブリッドなコンテンポラリー・ミュージックである。しかし80年代に近づくにしたがって、それぞれのアーティストがアイデンティティを強めていった結果、ロック色を強めたAOR、ソウル寄りのブラック・コンテンポラリー、ジャズ色を帯びたフュージョンへと、再び収束に向かっていった。それを念頭に置いて中心人物:芳野藤丸のキャリアを見てみると、彼がその流れにヴィヴィッドに反応していることが分かる。『BGM』を出した頃はボサノヴァなどもレパートリーに入っていたのに、ONE LINE BANDではソウル・ミュージックからのインフルエンスを前面にダンサブルなシティ・ミュージックをクリエイト。SHOGUNではそれに加えて、ケーシー・ランキンと共通するウエストコースト・ロック〜AORの香りが強くなった。こうした自由な音楽性を持ちながら、それをバランス良く音に置き換えていく感覚。何でも出来てしまうのに、常にアダルティーなポップス路線を外さないところが、当時のリスナーのニーズにフィットしたのだろう。
 スタジオ・ミュージシャン集団だけあり、高いクオリティを守り通したことも、耳の肥えた音楽ファンの信頼を得た。バンド・アンサンブルも、前身時代よりギュッとタイトに濃縮された感がある。大谷の多彩なキーボード、藤丸の小気味いいギター・カッティングもさることながら、このリズム隊の引き締まったアンサンブルこそがSHOGUNのシグネイチャー・サウンドになった。また“男の哀愁”を感じさせる藤丸のヴォーカルも絶品である。本業ではないだけに、声量やテクニックで彼の上を行くシンガーは幾らでもいるだろう。だが彼の歌には、それを超越した味わいや存在感があった。メンバーの優れた技量に支えられているとはいえ、最後にSHOGUNをSHOGUNたらしめるのは、誰よりも芳野藤丸の個性だと思う。
 さらに、世界に通用するバンドを目指したスケール感も、従来の日本のグループとは一線を画していた。例えば本作をお聴きになれば分かるように、彼らのレパートリーはほとんど英詞で作られている。日本語はシングル曲に限られ、基本的にオリジナル・アルバム未収録。日本語ナンバーで唯一アルバムに入ったのは、デビュー曲<男達のメロディー>だけである。SHOGUNの前年にはあのサザン・オールスターズがデビューし、革新的な日本語ポップスで爆発的な人気を得た。その一方で、イエロー・マジック・オーケストラが登場。斬新なテクノ・サウンドと、分りやすさを逆手に取ったチープなオリエンタリズムで、世界的な評価を受けている。でも国内のYMO人気は、サザン同様、若年層の音楽ファンに支えられていた。一部、音楽マニアや興味本意のオジサン・リスナーもいただろうが、決して主流でなかったことは明らかだ。それに対してSHOGUNのサウンドは、本物指向の音楽ファンにアピール。そこにタイアップ・シングルで獲得した若いファンが乗るという構図だった。
 このタイアップの存在は、SHOGUNを語る上で欠かすことができない。最初のタイアップとなった<男達のメロディー>は、沖雅也主演のTVドラマ「俺たちは天使だ!」のテーマとして50万枚を越えるヒット。1stアルバム『SHOGUNは、まるごとサウンド・トラックの役割を担っていた。それにより、彼らはデビュー直後から高い知名度を得られたのである。そして次の<LONELY MAN>と<BAD CITY>も松田優作の「探偵物語」に使われ、大きなセールスを記録。松田の“工藤ちゃん”人気と相まって、SHOGUNの評価を決定づけた。これがなければ、たとえ彼らのような本格派でも。檜舞台には上がれずに終っていたかも知れない。
 ただ忘れてほしくないのは、この2曲は英詞のナンバーであるということ。ファンの間では有名な話だが、実は<男達のメロディー>では、C&W調の歌詞が藤丸の希望と合わないまま録音されたというエピソードが残っている。それだけに、たとえタイアップ曲であろうとも、メンバーのこだわりを尊重することになったのだ。この2曲を収めた2ndアルバム『ROTATION』は、見事に日本レコード・セールス大賞“グループ新人賞”を受けている。
 それに比べると、3枚目の『YOU'RE THE ONE』はタイアップもなく、若干地味な印象があるかも知れない。でも、その分ひたすらにサウンドのクオリティを追求した作品でもあり、アルバムの完成度は一番高いように思える。タイトル曲<ONE ON ONE (You're the one)>は、のちに藤丸がソロ・アルバムでリメイクするほど気に入っていたらしい。
 このSHOGUNが、最近になって再評価されている。その理由のひとつには、壮絶な死を遂げた松田優作が、稀代のヒーローとして今も人気を集めていることがある。特に「探偵物語」は、映像作品やフィギュアの発売、CMなどがたびたび話題になった。そして颯爽とスクーターに乗る工藤ちゃんがTV等に映る時、バックではいつもSHOGUNが鳴っていた。そしてもうひとつ、今度はもっと純音楽的なところで、70〜80年代のソフィスティケイトされたサウンドが若い世代に注目されていることが挙げられる。この世代は、80年代後半〜90年代のデジタル・サウンド氾濫の中で多感な思春期を迎え、ヒップホップやR&Bシーンを支えてきた。しかしコンピューターで作られる音楽が行きつく所まで行ってしまうと、よりメロウでヒューマンなサウンドを求めるようになった。クラブ・シーンで起きたレア・グルーヴやフリー・ソウルのムーブメントがこれを先導し、70'sR&BやAOR、ブルー・アイド・ソウル、ブラジリアン・サウンドなどが復権。最近はカフェ・ブームが沸き上って、小粋なジャズやボサノヴァの人気が高まっている。生のストリングスやフェンダー・ローズの甘美な響きに象徴される生音感覚が、ヴィンテージなものとして受け止められているのだ。こうした流れに連動し、同じ質感を持つ日本のシティ・ポップスにも再び光が当たってきた。最近のアーティストにはこの手の音にリスペクトを払う者が少なくないし、カヴァー・ソングも増えている。また、その旗振り役といえるコンピレーション・シリーズ『LightMellow〜City Breeze from East』のSME Editionにも、SHOGUNの<South On 101>と<One On One (You're the one)>が収録。Warner Editionにも藤丸のソロやAB'Sのナンバーが収められた。そこにこのコンプリート盤が出たわけで、実にタイムリーといえるだろう。人気DJによるリミックス・アルバムや、クラブ・ユースのアナログ12インチも同時リリースというからホンモノである。もちろん、今コレを熱心に読んでいる方には、SHOGUNをリアル・タイムで聴いてきた人も多いと思う。その世代は仕事やら家庭やらで音楽離れしている人が多いから、それはそれで大変喜ばしい。でも何よりも若い世代に聴いてもらうのが、これからのミュージック・シーンを考えていく上で、自分には最も嬉しいことなのだ。
 それでは最後に、3rdアルバム以降のSHOGUNについて書き添えておこう。自分の知る限り、活動停止の理由は明らかになっていない。ただ、それぞれが音にこだわりを持つ連中だけに、メンバー各自の目指す方向にズレが生じた可能性が高い。またセッション・ワークが多忙になり、誰かが脱落してしまったことも考えられる。アマチュアから登り詰めた仲間意識の強いバンドなら、必死に体制を立て直したりするだろう。ところがそこは、叩き上げのプロ集団。スマートというか、実に呆気なく自然消滅の道を辿ってしまった。しかし、日本発のインターナショナル・バンドを目指したランキンは、夢を捨て切れない。そこでパラシュートでの活動にピリオドを打ったマイク・ダン(b)、三浦晃嗣(ds)、角田順(g)らと新たなレギュラー・グループを結成。これを再び“SHOGUN”と名づけ、'85年に『スパーリング・ウェイ (原題:JUS-TUS)』を出している。この作品はロンドン録音で、元イエスのリック・ウェイクマン(kyd)の参加が話題になった。が、サウンド的にはオリジナルSHOGUNのイメージとはかなり離れ、短期間で消滅してしまった。その後しばらく音沙汰がなかったが、90年代後半になって、周囲の声に押されるように再結成が実現。藤丸、ランキン、大谷、長岡にエリック・ゼイ(ds/ケイシーの息子)の顔ぶれで、'97年10月に<BAD CITY/LONELY MAN>のリメイク・シングルをリリースした。これはタイミング良く、「探偵物語」の映像を使った缶コーヒーのCMに使われている。続いてシングル<Starting All Over Again>、アルバム『NEW ALBUM』を立て続けに発表。『NEW ALBUM』は“17年振りの4thアルバム”と銘打たれ、やはり藤丸抜きのSHOGUNはSHOGUNではない、との思いを強くさせられた。しかしライヴ再開を前にして、ケーシー・ランキンが脱退。その後シングル盤<チャラ>をリリースするも、メンバーは藤丸、大谷、ミッチーの3氏になってしまった。昨年もニュー・レコーディング開始の報はあったが、現在まで正式リリースには至っていない。何とか今回のプロジェクトを機に、新しい音を届けてほしいものである。
 祈・SHOGUN本格復活!
(2001年7月 金澤 寿和)

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