忘れられない涙は、どんな味ですか?あなたの想い出の涙エピソードを大募集!!

  • 2008.04.08 12:30
  • ゆうこ@津軽 ( 青森 24歳 )

  • 当時、私は同じクラスの人に片想いしていました。

    彼は、けっして目立つ感じではなかったけど、私の中ではすごく輝いている存在で、音楽が大好きで趣味でドラムをしていました。

    高校生活最後の文化祭。彼が数人とバンドを組み、文化祭に出ることを知りました。

    放課後、体育館で毎日のようにドラムの練習をしている彼をいつも遠くで見て応援していました。

    文化祭当日。私は、朝からワクワクしていました。

    ところが、彼がいつもつるんでいた仲間の1人が喫煙していている所を学年主任に見られたのです。
    その人は、バンドには参加しないのだけれど、怒った学年主任はケジメをつけるという意味で彼が出るはずのバンド出演をなしにする、といったのです。
    それを聞いた私は、すごくショックで…泣いてしまいました。涙がとまらず、しばらく友達の胸で泣いていました。
    ステージ披露は午後から始まる予定。私は、お昼ゴハンも食べず職員室へ向かいました。無我夢中でした。気がつけば、泣きながら学年主任に講義していました。(彼はちっとも悪くない。)頑張って練習している姿を見てきたから…高校生活最後の文化祭なのに…。
    後々、よく考えたらすごく恥ずかしい行動ですが…。

    講義のおかげ(?)か、無事にバンド出演が元通り出来ることになり、すごくはしゃいで彼のドラムを叩く姿を見ていました。
    とても嬉しかったんです。

    後でわかったのですが、彼と一緒にバンドを組んだ仲間から聞いた話。
    私が、ショックを受け友達の胸で大泣きしている姿を彼に見られていたんです。彼は、バンド練習している時私が見ていたことも知っていて、私のナミダを見て、主任の元へ喫煙した人と、その仲間達と謝りに行き参加させるようにお願いをしに行ったそうです。
    楽しみに待ってる人がいるので…と。

    この話を聞いたのは、学校卒業してからでした。彼は、就職の為東京へ行った後でした。

    あの時のナミダは、今となってはすごく良い思い出。

    卒業してから六年。
    次に、彼に逢う日があるとしたら、あの時の素直な気持ちを伝えたいです。
  • 2008.04.07 17:22
  • おかゆ ( 北海道 22歳 )

  • 私は、5歳のときに初めて恋をしました。

    同じ年で隣のクラスで、背が幼稚園で一番小さな男の子でした。

    ある日、私は手紙を書きました。

    「すきだよ。おおきくなったらけっこんしてね。」

    それを隣のクラスの子にお願いして渡してもらいました。

    それから3年後、小学校でクラスが一緒になりました。

    行事のときに母親同士で

    「あの子、あの手紙を今も大切に持っているよ」

    「あの時はまだ字が読めなかったのよ」

    という話を聞きました。

    とても嬉しかった。

    それから、ある日私の友だちで彼のことを好きな子が

    「彼のこと好きなの?」と私に聞きました。

    友だちとの関係が壊れるのがイヤで、「違うよ」と言いました。

    それからすぐに彼は引っ越して行きました。

    住所も何も教えてくれませんでした。

    後に彼は私に好意を抱いてくれていて、

    友だちが「好きな子いるの?」と聞いて私の名前をだしたらしいのです。

    せっかく両思いだったのにもう会えなくなってしまいました。

    小学生の私は、もっと素直になればよかったと後悔しました。
  • 2008.04.07 17:21
  • boooood ( 広島 24歳 )

  • テレビを見て泣いたりはするけど、卒業式などで泣いたことはありませんでした。でも、短大で大学祭実行委員会に入り、2年の秋、大学祭のエンディングで感極まって涙が出ました。
    2年で卒業だから1年のときしか先輩から教わることが出来なくて、ほとんどわからないことだらけ。協賛をお願いしたり、警備を考えたり、企画を考えたり・・・とても大変でした。でも大学祭がエンディングまで無事成功したことが大変嬉しかったのです。

    青春の思い出です。つらい事も楽しかったことも悩んだこともひっくるめて本当いい思い出です。
  • 2008.04.05 19:03
  • えみりんご ( 奈良 32歳 )

  • もともと大阪にすんでて奈良に一戸建てをたててくれて

    絶対ワンコを買いたくてすぐ柴犬ゴン太くんがうちにきて家族になりました

    当たり前にいつも外で雨の日も風の日も帰りをまってくれてたゴン太くん

    何でも咬んで靴もボロボロにしてくれました
    当たり前に時が過ぎ一緒に散歩したり足の裏のにくきゆう触ったらおこられたり
    海にもいったし船に先頭きって気持ちよさそうにしてたゴン太くんが
    13年目で一年苦しみぬいて亡くなりました。
    いなくなる前家族全員で集まり泣きまくりました

    息がなくなってもぬくもりがまだある。最後の最後で声もだせないゴン太抱き抱えておもいっきり泣きました。
    涙にも色々あるけど別れの涙は辛すぎて時に心があながあき
    涙が出ないときもある悲しみの涙は流したくありません

    心が穴があく体験した人が乗り越えたら強くなってる
    うまいことなってる

    涙の重さは人それぞれ違うけどその時流した涙は弱さ優しさ悲しさ悔しさうれしさ全て物語があるってことですね
    ゴン太くんがいなくなった今でも心の中にいきつづけてますから今は涙は晴れ時々涙です
    またうちには柴犬こてっちやんがいます
    精一杯一緒に過ごしてあげたいとおもいます
  • 2008.04.04 16:23
  • なちゃん ( 青森 16歳 )

  • ウチは、去年
    高校生になりました。

    新しい友達、クラス、
    これからの生活すべてが
    楽しみでした。

    入学して
    友達ができて
    すごく楽しく過ごせました。

    馬鹿騒ぎしたり、
    遊んだり、笑ったり‥
    幸せでした。


    でも一緒にいた友達が
    好きじゃなくて
    つい悪口を喋ってしまい
    雰囲気は一気にかわりました。

    今まで一緒だった友達が
    離れていく‥

    それは、とてつもなく
    悲しいものでした。

    これまでの生活が
    楽しかったのは
    友達がいたからなんだ、
    ということを
    初めて知りました。

    謝ったけど
    きまずさは戻らず
    結局ウチは
    学校を中退してしまいました。


    毎晩部屋で泣いて
    自分を責めて
    自殺も考えました。

    学校での楽しかった思い出が
    頭に浮かぶたび、
    ナミダが止まりませんでした‥


    今では前向きになって
    泣くことはなくなりました。

    友達のありがたさが分かった、
    そんな「ナミダ」でした。
  • 2008.04.04 16:22
  • たくちゃん ( 青森 38歳 )

  • 好きになった人ができるたびに告白してたら
    現在5連敗
    いったいいくら勇気を出せばうまくいくのか
    自分でも疲れてしまう始末
    そんな自分でも
    ナミダの次は晴れなのだ
    明日もはりきっていくぞ〜!
    なんて自分をはげましています
    前向き人生にいい事ありますように。
  • 2008.04.03 21:07
  • ぇみぃ ( 青森 15歳 )

  • 今までにない大恋愛だった。好きで好きでたまらなかった。色んな人に悪口言われたけど気にならないほど好きだった。勇気を出して告白した。なかなか返事が来なくて、諦めかけていた。そして、このクラスで過ごす最後の日にやっと返事がきた。結果は「彼女がいるから…。でも友達としてならいいょ。」と言われた時には、本当に涙が止まりませんでした。今は、私にも彼氏がいます。相手にも彼女がいて、みんなが認めるラブラブカップル。私も応援しています。
  • 2008.04.03 19:17
  • 3人のママ ( 青森 24歳 )

  • 二年前の1月。それは、ちょうど埼玉に住んでた私の父親が亡くなって約2ヶ月くらいの時でした。
    当時まだ一歳と二歳の男の子を子育てしていたある日、まさかの妊娠発覚。
    経済的に大変になるのもわかってたから旦那は『あきらめるしか…』の一点張り。一週間考えて旦那が『やっぱり、授かった命だし、頑張ろう!』って言ってくれました。そして、2人を連れて産婦人科に通って早、10ヵ月。9月の予定日から一週間が経ちやっと陣痛がきて、お昼には出産。待望の女の子。
    面会にきた旦那と子供達に、『産んでくれてありがとう。お疲れ様☆』と言われました。病室で赤ちゃんの寝顔をみながら大泣きしました。あの時のナミダは忘れません!
    今は三人仲良く元気に成長してくれて、子供達にも感謝です。
  • 2008.04.03 19:16
  • あり ( 大阪 32歳 )

  • 僕は3人兄弟の末っ子で、二つはなれた姉がいます。
    小さいときから喧嘩ばっかりで、ほんまに憎み合ってる
    かのようでした。

    その姉が、フランス人のパン職人に見初められ、
    10年前にフランスへ旅立ちました。

    フランスでの生活がなれた頃、日本に遊びに帰ってきました。
    長く離れていたのに、帰ってきてもやっぱり喧嘩ばっかりで、
    怒鳴りあい、いやみの言い合い、
    しまいには「帰ってくるな」まで言ってしまいました。

    フランスに帰国するのに、空港に送りに行ったときのことです。

    日本では身の回り半径1mにも近づくことのない僕たちは、
    日本では考えられない、フランス人特有の挨拶、
    ビズ(ほっぺたを合わせあう挨拶)を姉のほうからしてきました。

    なんとも言えない、幸せな気分になりました。
    腐っても兄弟・・・こんなことを言うのでしょうか?
    あとにも先にも、このときが最後で最後のビズでしたが、
    いい思い出になりました。

    4/5、旦那と娘を連れて、また凱旋帰国する予定です。
    僕たち日本の家族は、フランス一家のことを

        「台風一過」

    と呼んでいます。
  • 2008.04.03 19:15
  • たっけん ( 兵庫 32歳 )

  • 私が高校2年の時、父が他界しました。
    お酒ばかり呑んで、博打して…とんでもない人でしたが、
    遺品整理をしていた時、

    『大切な娘へ 結婚式見られへんなぁ。それだけが残念や。
    エエ人と一緒になって幸せになるんやで』

    と書かれた手紙を発見。
    どんな人であろうと私の唯一無二の父親。
    ナミダが止まりませんでした。
    今では子供4人に恵まれて、日々楽しく過ごしてるよ!

       …結婚式の前日、夢で抱き締めてくれてアリガトォ。
  • 2008.04.02 15:32
  • 9月にママ ( 滋賀 32歳 )

  • 今年の1月、産婦人科へ・・・
    本当に1cmにも満たない小さな小さな丸。
    私のお腹の中で、心臓をピクピクと動かしているのが確認され、始めての妊娠が発覚。
    エコーでまだ何の形でもないそんなカレと始めての対面で
    思わず、嬉しいのと生命のやどった感動で自然と涙があふれてきました。(お医者さんや看護士さんの前で・・・)
    大切な人の子供を授かった感動は本当に女である特権なのかも知れませんね。一生忘れない初対面でした。
  • 2008.04.02 14:50
  • ラムネ ( 北海道 26歳 )

  • 学生時代からの彼が、東京に転勤に。いつも一緒だったから、彼がいない、いつもの札幌の街がいつもと違いました。彩りを失ったように、暗いんです。いつもの、二人でお茶した喫茶店で、平常心をとりもどそうとしました。なにか涙がでてしかたありません。彼の存在がとてもおおきかったことに気がついたんです。

    しばらくして、彼からプロポーズの言葉が。「一緒に、歩いていきたい。」同じ気持ちだったことを知り、うれしい涙がいっぱいでました。
  • 2008.03.31 22:33
  • kuyuu ( 東京 25歳 )

  • 中学のときの駅伝の話です。
    陸上部のなかった私の中学校は県駅伝を走りたい人をバスケット部やバレー部からかき集めて、「寄せ集めチーム」を作りました。
    でも、陸上を教えられる先生もいなかったのでコーチ役は陸上が好きな町の公務員さんに頼みました。
    それから私たちはそれぞれの部活が終わってから毎日走りました。

    その努力が報われて無名の私たちは県駅伝で「新記録」を作って優勝し、各都道府県の優勝校しか出られない「全国中学駅伝」を走る権利が与えられました!

    私の住んでいた地域は「陸上が弱い」と言われている地域だったのでどのチームからもノーマーク。(万年全国最下位ほど)
    私たちは学校や保護者の支援を受けて、毎週のように学校が休みのときは全国駅伝のある会場の他県まで試走に行き、週末は泊り込みで練習しました。

    そして大会当日、私は1区という大役を任されていたのですが、当日は風邪をひいていました。案の定、私は全国47チーム中40位ほどで2区を走る仲間にタスキを渡すことになりました。
    「せっかく頑張ってきたのに私のせいでもうだめだ」と私は試合が終わる前に悔し涙を流していました。

    しかし私の仲間はそれから着々と順位を上げて、私の分まで頑張ってくれてなんと20位台という快挙を成し遂げました。

    また私は号泣でした。

    陸上は個人種目で自分との戦いですが駅伝は違いました。
    「仲間が一丸になって頑張る!」
    頑張れば必ずその夢は叶えられます!
    自分ひとりではダメでも仲間と助け合い仲間を信頼することは大切ですね!

    試合後の涙は、悔し涙ではなく、何よりも仲間の素晴らしさとたくさんの人に支えられているんだという感謝と感動の「ナミダ」でした。

    そして県駅伝の「県記録」と全国20位台の県記録は10年経った今でも破られていません。
    このナミダは何にも変えられない「最高のナミダ」でした。
  • 2008.03.31 11:59
  • makichi ( 長崎 37歳 )

  • 3月23日、つい先日ですが、友人の結婚式に招待されました。2ヶ月前にスピーチを頼まれ、私で良かったら、と即答したものの。いざ考え始めると、難しいもの。そこで、十年ほどの思い出の写真を押し入れから出し。フィルム派の私はそれらを写真屋さんへ。デジタル化してもらったものの、年代順にはならないと言われ。機械が苦手な私。しかし、ここまできたらやれしかないと、パソコンの詳しい別の友人にやり方を習いに隣の町まで。それから一週間、パソコンの前で三歩進んで二歩さがる、の毎日でした。スライドショーが出来上がったのは2日前。それで満足しきった私でしたが、肝心のスピーチが。その勢いで一時間ほどで仕上げました。さて、これをどうプレゼンテーションするか?わたしの頭によぎるのはとなりにいるから〜、ねぇ〜。という曲。長崎ではテレビでおなじみのフレーズ。前に一番の歌詞を聞いたことがある私は、その曲をスライドショーにのせたくて。テレビ局に電話したりCDショップに電話したり。しかし、結婚式は2日後。どうにかして、成功させたい私は、携帯で曲をダウンロード。一番の2分30秒で、スライドを終わらせる練習を何十回もしました。しかし、肝心のCDが手に入りません。最後の手段。式場の人に頼んで、探してもらいました。当日の朝、式場に行ったら、タカチャのが。これで、つかみは。長崎人は、となりにいるから、ねぇ、って
    聞けば、あっと思うもの。実際、ざわざわしてた会場がスピーチに耳をかしてくれました。私の友人は日頃からクールな女性なのですが、私のスピーチに彼女の母親が号泣してくださったらしく、その姿を見て、涙を流したと言っていました。この大好きな曲を長崎に広めてくれた、タカチャさん、曲を直前まで探してくださった式場のみなさん。そして、スライドショーを根拠強く教えてくれた友人。全ての方々に感謝しています。また、この機会を与えてくれた、新しく家族を築いていく二人に、心からありがとう。タカチャの歌詞のように、幸せになって欲しいと願ってます。以上、私ののお話でした。ちなみに、私の着うたは、もちろんとなりにいるから〜。です。長崎にもライブ、来てください。待ってます。
  • 2008.03.31 11:58
  • はる ( 岩手 20歳 )

  • 別れてもうすぐ2年経ちますが、約3年間付き合った彼氏がいました。

    付き合って2年ぐらい経った頃から、忙しさであまり会わなくなり恋人というより友達という関係に思ってしまっていました。
    あんなに好きだったのに想いが変わってしまったことにショックでした。自分は最低だって毎日思っていました。
    ひとりで考え込んでしまって何ヶ月も考えて、友達に戻りたいと思いました。
    悩んでいた数ヶ月はカラカラになるほど泣きました。辛かったです。
    でも、誰のために泣いているんだろう?って思いました。
    泣くことは自分の気持ちをなだめているだけなのかも、、
    私が悩んでる間も、相手の時間をうばっているだけだって気づきました。

    彼氏は別れたくないと言いましたが、別れた方がいいとしか言えませんでした。
    本当はもっとたくさん伝えることがあったのに、素直に言えず、最後もメールで終わりました。

    しばらくして彼氏には新しい彼女が出来て、安心したし嬉しかったです。
    今では友達ですが、毎年記念日だった日にはメールをしています。


    恋愛に限らずですが、2年経って色んなところに行って色んな人に会って、辛いときに泣くことは、自分を成長させるチャンスだと思えるようになりました。
    泣き虫だけどその分がんばってるってあとになって思えます。

    春から社会人です。たくさんの人と関わって成長することが目標です。
    どんなに泣いてもがんばります!!
  • 2008.03.31 11:57
  • もんちゃ ( 大阪 22歳 )

  • 私は夢とかやりたぃ事がなくて、仕事も何をしたらいいのか悩んでて、しばらくの間仕事もしていませんでした。
    周りからは、取りあえず何でもしたらいいんちゃう?って言われてたんですが、それで続かなかったら…とか、自分には…なんて事ばっかり考えていました。
    あと私は昔から貧血みたぃな症状で倒れたり気持ち悪くなったりすることがちょこちょこあり、もし仕事中になったら迷惑かかるし…と言うのも大きな不安の一つでした。

    そしてつい最近、結婚している姉と仕事の事について初めて真面目に話したんです。姉とは普段から子供を連れて一緒に遊びに行ったりするんですが、真剣な話はなかなか…(^^;
    それで、電話で姉にこう言われました。

    『あんたは腹立ってても愚痴も言わんし、悩み事があっても一人で抱え込んで何も言わん。だから心配になる。あんたは私(姉)の事を気にかけてくれて、子供を見てくれたりしていつもホンマに助かってる!でもあんたが人を助けてあげたり、気にかけたりしてあげてる分、次はその人達があんたの為に何か支えになってあげよぅと思ってるはずやで!少なからず私は感謝してるし、困ってたら助けてあげたぃと思うから。悩んでるんなら話聞くし、いつでも言いゃ!』って。

    それ聞いて涙止まりませんでした。普段言葉に出して言わなぃけど、自分のしたことで感謝してくれてる人がいるといぅこと。自分の事を本当に心配して気にかけてくれてる人がいるといぅこと。すごく嬉しくもあり、自分が情けなくもなりました。
    人の幸せは自分の幸せ☆自分の幸せは人の幸せ☆ですね(^-^)皆が笑顔でいれるよぅに頑張ろう、少しずつでも前に進もぅ!そぅ思ぇました★★
  • 2008.03.31 11:56
  • ミチェ ( 青森 19歳 )

  • 去年専門に入るために上京して、今年無事卒業しました。上京した当時、毎日泣いてばかりで、自分で決めた事だから頑張らなきゃと思えば思うほど辛くなり、タカチャさんの歌を聞けば八戸に帰りたくて仕方ありませんでした。学校に行けば、なまってるとか、自分のせぃで発音がおかしくなったトカ、言われ、八戸の事が大好きだけど、方言が恥ずかしく話すのが嫌になっていきました。学校では笑い、家ではずーっと泣いて、という生活でした。田舎育ちの自分にとって満員電車とかに慣れれなく、みんなの歩くスピードについていけなく、なんでこんなに急いでんだろうと何回も思いました。

    学校で嫌な事があっても誰にも愚痴をこぼしませんでした。1回でも愚痴ったら、今まで我慢してきた事を歯止めがきかなくなるくらい話してしまいそうだったから。

    そんなある時、3歳上のクラスの人に、コッソリぁたしの前では無理しなくてぃぃよ。辛いなら辛いって言っていいんだよって言ってくれるお姉ちゃん的な存在の友達ができそしてその言葉で救われました。
    そのおかげで徐々に楽しい学校生活になっていき、クラスみんなと仲良くなっていきました。
    そして八戸の良さと、タカチャさんの事をしつこいくらい話しました☆

    私が入った専門は
    調理の専門だったから
    どんなに練習しても技術がついてこなかった時
    や悩んでいた時など先生達も助けてくれて、
    前まで人に弱いところを見せるのが嫌いだったけど、頼ってもいいんだ、
    かっこ悪い自分でも受け入れてくれるんだと思い本当に気持ちが楽になりました。就職を東京でしようと考えていた矢先家庭の事情で八戸に帰らなきゃいけなくなり、
    落ち込んでいた時、みんないろいろ楽しませてくれ何回もうれし泣きをしました。そして卒業式私は初めから泣きっぱなしでした。
    この学校に入ってよかった。家族の大切さがわかったから1回でも地元をはなれてよかった。
    仲間と出会えとよかったと心から思いました。
    寂しい時
    嬉しい時
    感動した時
    辛かった時
    悔しかった時
    ムカついた時
    たった1年でいろいろな感情の涙を流しました。それと同じくらい自分のために泣いてくれる友達もできました。

    時には泣いても解決しないときもあったし
    泣きたくないのに涙がでてくることもありました。
    泣くことが
    私にとって恥ずかしい事からとても大事な事へと変わりました
  • 2008.03.31 11:56
  • こぅちゃん ( 北海道 25歳 )

  • つい2日前の夜、ワタシは人生で一番泣いたんじゃないかと思う程号泣しました。
    付き合って2年の彼氏がいます。ワタシがこんなに長く続いたのは初めてで、ズット大好きで仲良しでした。些細なイザコザはありましたが 大きな喧嘩をしたこともありませんでした。
    今年の年が明けてから、ワタシは資格の勉強を始めました。しかし思うように理解できなく集中出来ないワタシは やがて彼氏が来ることを面倒と思うようになってしまい、加えて彼氏のだらしなさや、ルーズさが2年も経って何も変わらないこと、結婚を考えてくれないこともあり気持ちが冷めていきました。それでも彼氏はワタシがイライラして当たってしまっても 怒ることをせずにいてくれたのです。このままではいけないと思っていました。
    そして3日前、彼氏から別れようとメエルが来ました。でもワタシは会って話したいと 次の日あうことにしました。
    そして一昨日会って話をして始めはワタシも別れる気持ちもありました。彼氏も気持ちは別れると決めていて、意思を曲げようとはしませんでした。しかし話していくうちに彼氏が今までどれだけワタシを思ってくれてたのか、色んな気持ちが溢れてきました。嫌いに近かった気持ちが愛に変わるのがわかるようでした。ワタシが持病で足腰が痛いと言ったときは誰もいってくれなかった『変わってやりたい』という言葉をくれました。いつでもワタシを一番理解してくれました。そこで存在の大きさと ワタシの気持ちの狭さに比べ彼氏の器の大きさに気付き、離れたくない、離れたくないと大泣きしました。彼氏は暫く考えていましたが、おまえと離れることは自分が嫌なことから逃げているだけだといってくれました。私がわるいのに。。
    私が今までしていたのはスキの延長の恋愛で、助け合ったり高めあったり出来るようにならないと夫婦にはなれないことに気付かされました。
    大変だと思うけど 夫婦になることは素晴らしいことだと思いました。
    ワタシもいつか彼氏と 夫婦として互いを助け合えるようにがんばろうと思います。
  • 2008.03.28 19:47
  • さく ( 青森 23歳 )

  • 父さんに突然ガンかもしれないって言われた時いっぱい泣いたよ。その日からアタシ毎日父さんに千羽鶴おったんだよ。間違いであってほし父さんに突然ガンかもしれないって言われた時いっぱい泣いたよ。その日からアタシ毎日父さんに千羽鶴おったんだよ。間違いであってほしい!
    だってアタシ父さんにマダ全然親孝行してないじゃん!10日後、父さんから電話がきた。『父さんガンじゃなかったんだよ。お騒がせしてごめんな』父さんの肺にうつった影は知らない間に肋骨を怪我していた跡だった。

    肩の力がぬけて、アタシはその場で号泣した。嬉し泣きって初めてだった。まさか父さんのコトで嬉し泣きするとは思わなかった。何か悔しいよ笑。
    ルンルンで家に帰ってきたアタシをまっていたのは大量の鶴。恥ずしいけど来月の父さんの誕生日にプレゼントとしてあげようと思ってる。こんな短期間にアタシはイッタイ何回泣いたんだろう?笑
    この先、嬉し涙何回流せるのか自分自身楽しみだよ。
    父さん長生きしてよ
  • 2008.03.26 15:07
  • ホリィ ( 宮城 30歳 )

  • 六年前長男を出産しました。しかしその子は3歳になっても、意味のある言葉をお話しませんでした。日常の生活でも常に落ち着きが無く、外出すればお店の物を壊す。そして要求が通じないもどかしさのせいか、カンシャクをおこし、毎日何度も暴れて、大泣きをしていました。
    どうしてこの子は、言葉を話さないのだろう…?どうしてこの子は、こんなことをするのだろう…?保健師の先生の言う通り、テレビもあまり見せてないし、周りの子は、きちんとご挨拶して、お話も上手にできる、なんで私の子供だけこうなの… 。周りの人は、母親のしつけが悪いから、あんな子供なんでしょう?きっと周囲の誰もからその様に思われていました。そして、私もそんな生活に疲れて必要以上に外出しない、子供と引きこもりな生活を送っていました。
    ある時そんな生活に転機が訪れました。今でもはっきりと覚えています。台所で夕飯の支度をしていた私に、真っすぐな、まんまるな瞳で私を見て、
    ママ…。
    驚きました。そして涙が溢れました。子供の全てを受け止めきれなかった。守ってあげれなかったごめんなさい。
    でもそんな私を息子はママと言ってくれた。
    本当にありがとう。
  • 2008.03.25 23:28
  • AIRI ( 高知 23歳 )

  • 中学の時に、綺麗な綺麗な山ゆりが校舎のとなりの山の崖に、一本だけはなれて咲いていて、部活のランニング中にそれに目が止まって、思わず「綺麗なゆりやね〜」と、ひとりぽつんと言ってしまいました。

    そしたら後ろから
    「美しいものを美しいと思えるあなたのその心が美しいです」と担任のS先生にボソッと言われました。
    私は、嬉しくて嬉しくて
    その時涙が止まりませんでした。

    その後卒業式に、
    その事を皆の前で話して、「私の生徒が、勉強ができることよりも、最も心が美しい事が私の誇りです」
    と言ってもらえたことにまた泣いてしまいました。

    私はこれから先なにがあっても、この言葉を思い出して自分に自信や勇気をなくしてはいけないと思いました。
  • 2008.03.25 18:55
  • マキ ( 東京 26歳 )

  • 5年前、私は母を亡くしました。


    あの時不思議と涙は流さなかったな。

    今思えば、たぶんまだ『死』を受け入れられない自分がいたから。

    母の死からしばらくして母から私宛の手紙を見つけた。


    『小さい頃から手がかからず、何でもひとりで出来たあなただから大丈夫!』


    亡くなった母からの最後の励ましの言葉。手紙を読むと涙が止まらなかった。


    『母』と言う大きな存在。

    あなたがいたから出来た事。

    あなたがいたから前に進めた事。

    そんな気持ちを私は母に伝えられたのだろうか?


    後悔するよりは、今あなたに

    『ありがとう』

    が伝わるように
    あの頃と変わらず、元気に過ごしています。
    涙を笑顔に変えてくれた、忘れられない涙。
    お母さん本当にありがとう!!
  • 2008.03.24 14:30
  • すみれ ( 青森 36歳 )

  • 七年前、好きな人がいました。電話やメールだけで一度も会ったことのない彼に惹かれました。

    こんなに好きになったのは最初で最後の恋なのかなぁ
    とにかく楽しかった。
    何時間も話したり、笑ったり、淋しくてケンカしたり、お互い家庭があるということ以外は。

    最後にくれたメールを読んで何時間も泣いた。あの時のナミダ忘れない。

    今は彼がくれた幸せの日々を感謝してる。淋しがりやで、あったかくて、ポジティブな大好きだったひと。
    いつも彼が幸せであるように祈ってる。ありがとう。
  • 2008.03.23 18:40
  • ドルフィンリング ( 青森 37歳 )

  • 「うわ、また先回りして来てる。」

    大学時代静岡で一人暮らしをしていました。

    八戸に帰省する時は旅費の節約の為に東京から夜行バス「シリウス号」を利用していました。

    お盆や正月に里帰りし家族と過ごした後、再びシリウス号に乗車する時のエピソード。

    いつも母が始発「小中野」の乗り場に私を送り、発車するのを見送ってくれました。

    バスが出発し、やがて次の乗り場の「十日町」に着くと窓の外には母が立って手を振っているじゃありませんか。

    びっくりして手を振り返す私。
    窓を開けられないので一生懸命手を振ります。

    やがてまた出発し「根城」を通る頃外を見てみると、祖父母の家の前に今度は母、おじいちゃん、妹二人が立って手を振っているではありませんか。

    手を振る私は胸がいっぱいになり、たちまち涙がこみあげていました。
    その涙を見られないように必死にこらえながら更に大きく手を振りました。

    その場を通過し「馬場」に停車。なんとここにも母が立っていました。

    ちょっとふきだしそうになりました。
    「もう、お母さんたら・・・・。」

    両手を大きく振りました。

    そして、バスは八戸最後の乗り場の「高速インター入り口」に停車すると、やっぱり母が立っていて笑顔で手を振ってくれました。

    一生懸命笑って両手を大きく振ったけれど、通り過ぎると涙涙でずっとずっと眠れませんでした。

    母はいつもいつもこうやって私を見送ってくれていました。
    今でも時々思い出すのですが、振り返るたび温かい涙が流れてきます。
  • 2008.03.21 12:22
  • 狼牙 ( 青森 15歳 )

  • 卒業してすがすがしい気持ちと寂しい気持ちがあります。




    あのクラス実際好きだったんだよな〜




    頭いい奴がいて、バカな奴がいて、面白い奴がいて、静かな奴がいて、騒がしい奴がいて、趣味が合う奴がいて、趣味がまったく合わない奴がいて、オタクがいて・・・




    それでちょうどいい感じで




    凄く居心地がよかった




    なんか、ここがオレの居場所みたいな感じで




    毎日が楽しかった




    もし、死んで、生まれ変われるのだとしたら




    もう1度同じクラスになって




    たくさんのことを学びたい

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