恋愛に深く、深く悩み、彼女の歌をリピート再生にして聴き続けた夜がある。
 もっと強くなりたくて、でもなれなくて、力強い彼女の歌声にすがりつくような思いで聴いていた。泣き過ぎて腫れた瞼に、白いカーテンから差し込んできた朝日が眩しかった。もう、ずっと前のこと。だけど、その、瞼の裏がツンとするような感覚まで覚えている。
 『昔、聴いたあの歌を 今でも覚えてる私は 幸せね 幸せね』
 時の流れに運ばれるようにして辿り着いた、あたらしい場所で、彼女の新曲を聴いたら彼女はそう歌っていた。
 いろんなことが目まぐるしく変化する、20代から30代。それぞれの場面でひとり、感じてきたありとあらゆる感情が、彼女の過去の歌と、今の歌に、ピタリと挟まれた瞬間だった。その、優しくてタフな歌声に、その間にあったすべてが包み込まれた。そう感じた。
 『そう 今日まで辿り着いた』
 昔、彼女の歌声と共に流した涙の続きが、何年もの時間を越えて込み上げた。目頭がギュッと、熱くなった。
 それはとても、とても不思議で、あたたかい感覚だった。彼女が15年間、歌い続けてくれたからこその、包容力に救われた。

 PUSHIM、15周年。

 24歳でデビューし、現在38歳。レゲエ界を代表するトップアーティストであり、シングルマザー。自分のドラマを彼女の歌声に重ねるようにして聴いてきた、リスナーへ。その音楽のすぐ裏にある、彼女自身のドラマに迫ります。



 「幼稚園に、紫色のベルボトムを履いていって、サッカーボールに片足を乗せてポーズを決めたの、よう覚えてる。誰もみてへんかもしれんのに、ただ、カッコつけたくて••••••」。もう、笑っちゃうでしょう?と言うみたいに小さく笑って、懐かしそうにPUSHIMは目を細めた。
 目立ちたがり屋で、でもいざ注目が集まると「緊張しい」。当時から歌うことが好きで、大人たちにも歌唱力を認められ、幼稚園の行事で歌う役に抜擢された。——のはいいけれど「緊張しすぎて、当日の記憶だけが抜け落ちている」。男子にスカートめくりをされれば、自分をその対象として見てくれているのが嬉しい、と感じるほどに「オマセ」で、「好きなヒトはふたりいた」。頭がいいコと、運動ができるコ。人気男子ツートップを「どっちもええなぁ〜」と思っていた5歳のPUSHIM。(笑)。
 『想像は方々に 果てしなく果てしなく』という歌詞は、その頃の気持ち。頑張ればなんだってできる! なんにでもなれる! という全能感に溢れた子供だった。
 ———それが、小学校入学を機に変わっていく。
 PUSHIMは1975年、在日韓国人三世として、大阪に生まれた。
 幼稚園までは朝鮮学校に通っていたが、小学校からは日本人の子供たちと同じ公立へ。エスカレーター式で高校まで朝鮮学校に行くという選択肢もあったが、それでは視野が狭くなるのではないかと思った母親が父親と話し合い、パク•プシンという本名で日本の学校に入学することが決まった。
 「日本人として帰化することも新たに日本名をつくることもできたんですけど、両親は私に自身のルーツを大切にして欲しい、誇りを持って欲しいという思いがあったんやと思います」。しかしそれは、6歳の少女にとってはひとつの大きなハードルとなった。
 「当時、パックンチョとかパックマンが流行っていて、もう学校初日からそう呼ばれて。はやし立てられて。今思えば、ど〜うでもいいようなことですけど、その時はそんな風には思えへんかった」。
 入学式から、数日間、学校に行けなくなった彼女を見て、いつもは厳しい母親が、涙を流した。
 「今思うと、自分が決めたことで娘が苦しんでいる、という母としての辛さもあったと思うんやけど、その時は母親が泣いたということがとにかくショックで。それを見て、学校はすごく嫌やけど、泣かせるよりはましだと思って通い始めました」。
 目立ちたがり屋の活発な少女は、小学校のスクールカーストの下の方へと追いやられ"おとなしい子"というポジションを与えられた。小学4年で新大阪に引っ越して転校するまで、学校での暗い日々は続いた。
 「ボス的な女子グループは発育も良くて力も強く、意地悪やった。私も、普段はおとなしくしていても、もとが気性の荒い性格やから、我慢できひんときは取っ組み合いの喧嘩になったりもして。女の子たち、わざと爪を立ててつねるんですよね。頬とか、力いっぱい。私もやり返して。でも、自分がやっちゃったところが傷になって残っていないか、ずっと気にしていたことも覚えてる」。

『本能は姿より 燃えたぎる燃えたぎると
 無性の怒りに似た苦しみは夢となる』

 両親はジャズ喫茶を営んでいて忙しく、「おばあちゃんこ」というよりは祖母が母親代わりだった。喫茶店は家の近所にあったが、子供が近づく場所じゃないと言われていたため、「食事代の500円玉がテーブルの上に置いてあるような、いわゆる"カギッコ"やった」。
 寂しさを感じることはあったかと聞くと、「う〜ん。両親も妹も細いのに、私だけ肥えてたし。それは(関係が)あったのかもしれへん。寂しさから食べる、みたいなところとか」とぼんやりと答え、「一緒に遊んでいた友達が夕方に帰ろうとすると、駄菓子買ってあげるからあと30分遊ぼうとか言ってました。金で釣る小学生って••••••」と苦笑する。
 家のことは、5歳年下の妹の幼稚園への送り迎えも含めて彼女の担当。「ただ、だんだん悪知恵がついてきて、片付けは妹にやらせようとして怒ったり、今思うと妹が可哀想やった」、「申し訳なかった」と振り返る。

 ————話を聞いていて、PUSHIMがジャマイカに魅せられたルーツはこの頃にあるのかもしれない、とふと思った。
「初めて訪れた国なのに、懐かしさを感じたのはすごくある。途上国やから日本の昭和みたいな空気もあって。母子家庭も多いから母親が働いていて。おばあちゃんが食事の準備をしている風景を見ていたら、その仕草や表情が、自分のおばあちゃんと重なった。兄弟の上の子たちが下の子たちの面倒をみていて、まだ幼い子やのに親の代わりに家事をして、"おばあちゃんの知恵"みたいなものまでちゃんと知っていて。
 日本からとても遠い国やのに、私からはそう遠くなかった」

 でも、小学生の彼女はまだ、自分がいつかレゲエアーティストになりジャマイカに行くことになるとは思ってもいなかった。絵が好きで、ずっと一人で描いていて、将来はその道にいくのだろうと漠然と思っていた。
 「テレビで歌手が歌うのを観ながら、私もこうなりたいってなにげなく口に出したら、母親に"なにバカなことを言っているの"って思っていた以上に強く言われてビックリした。その時、あぁ、これは目指してはいけないものなんだって(いう意識が幼心に)残ったのかもしれない」。
 それでも、家に両親がいない時間をたっぷり使って、マイケル•ジャクソンのスリラーやマドンナのライク•ア•バージンのミュージックビデオを爆音で流し、歌いながら踊っていた。見よう見真似で振り付けもマスターし、発声法も完全にコピーできるまで練習するのが日課になっていった。「うるさすぎて近所から何度も苦情がきた」けれど、高校生になる頃まで、毎日続けていた。

『昔聴いた歌が今も
 心の奥のドアを開ける
本当は臆病な ちっぽけな子
ただいつも 誰かになりたかった』

<Ch.2につづく>



「That's my blues song」
 2013年3月に発売した通算8枚目のオリジナル・アルバム『It's A DRAMA』に収録された1曲。日本のダンスホール・シーンから求められる、数少ないシンガーとしての重責から自分を解き放ち、レゲエにこだわりながらもレゲエに縛られることなく作り上げたアルバムだ。
 この「That's my blues song」は3拍子のミディアムで、いわゆる非レゲエ曲。自分の人生観を歌に託し、「ふっきれたPUSHIM」とも評されるアルバムの中で、最も彼女の心象風景が描かれた楽曲だ。妊娠中だった2010年の夏、「いろいろあって気持ち的にドーンと落ちてた」頃に制作したこともあり、その歌声に宿る機微までもが心に響いてくる。
 近年はビルボードライブやブルーノートなど着席型の会場でも積極的にライブを行っているPUSHIM。そういった場所で聴く「That's my blues song」は、また格別だ。10代や20代の多感な世代はもちろん、同世代のリスナーにもしっかりアプローチできる表現方法を持ち合わせていることも、シンガーPUSHIMの大きな魅力だ。(文/馬渕信彦)

LiLy
作家/コラムニスト
81年神奈川県生まれ。蠍座。音楽専門誌やファッション誌でのライターを経て、恋愛エッセイ「おとこのつうしんぼ」でデビュー。最新刊は女の自意識をテーマにした小説「ブラックムスク」(小学館)
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