WORDS セイバーズ・オブ・パラダイス……、楽園のサーベル。もしそこが楽園だとしたら、人を傷つけ攻撃するための道具であるサーベルなど必要ない。こうしたパラドックスはウェザオールの得意とするところだが、しかし彼が幼少期に影響を受けたのがデヴィッド・ボウイにザ・クラッシュ、それから初期ファクトリーの音だということを思えば、彼はパンクスだった頃から変わっていないのかもしれない。デヴィッド・ボウイやパンク・ロックに共通していた世界観は“今の世界は何かの間違いである”という認識だ。僭越ながらこの僕もそうであるように、思春期にパンク・ロックと出会った者のこうしたなかばオブッセッショナルな認識がアシッド・ハウスと出会った時、セイバーズ・オブ・パラダイスのパラドックスは心地よくも暗い海底で育まれていったのだろう。セイバーズのことをイギリスのあるメディアは“アシッド・ハウスとロックとの結合”と形容していたが、それはただたんに音的な側面での出来事ではなく、ロックのアティチュードとアシッド・ハウスの音楽性とムーヴメント性とのデリケートな出会いを言いたかったのだとすればあながち外れてはない。ウェザオールの音楽がブレイクビーツであろうとダブであろうとテクノであろうとディープ・ハウスであろうとエレクトロであろうと、そこから傷ついたロック少年の姿を読みとることは決して難しくはないはずなのだ。 デヴィッド・ボウイを信じそして裏切られたと感じてしまうウェザオール、タトゥーが原因で家族から勘当されたウェザオール、誰もがピュアリスト(純粋主義者)であることにシニカルだった時期に自らをテクノ・ピュアリストだと言ってしまうウェザオール、女と別れ自らをトゥ・ローン・ソーズメンと名乗るウェザオール……、こうした羅列は彼自身がもっとも距離を置こうとしているポップの幻想をよりいっそう強いものにしてしまうかもしれない。だがウェザオールはロックのパラドックスを、そして本来なら快楽に忠実でありさえすればよかったはずのダンス・カルチャーにおけるパラドキシカルな態度を今もなお継続しているアーティストであることに変わりはない。そして、こうしたロックの秘密のような部屋に佇むウェザオールの醸し出す音は、もちろんセンチメンタルでメランコリックではあるけれど、しかしそれは人前で大声を出すことにためらってしまうような類の精神にとって、格好のサウンドトラックとなり得るのだ。