百恵ファンを公言していたアリスの谷村新司が、旧国鉄のキャンペーンソングとして書き下ろしたナンバー。唱歌を彷彿とさせる雰囲気が漂うせいか、世代を超えて高い支持を受け、文化庁ほか主催の「親子で歌いつごう 日本の歌百選」に選ばれている。幅広い曲調を歌いこなしてきた山口百恵にとって、「プレイバック Part 2」などのツッパリ路線とは対極にある代表作といえよう。オリコンでは最高3位だが、TBSのザ・ベストテンでは首位を獲得した。
数多くのアーティストがカバーしているが、作者の谷村は86年のシングル「祇園祭」のB面でセルフカバー。その後もNHK紅白歌合戦で歌ったほか、2008年にはソフトバンクCMソングに起用され、再度シングル化している。また、2003年には歌詞を変えた「いい日旅立ち・西へ」がJR西日本のキャンペーンソングとなり、鬼束ちひろの歌でオリコン4位の大ヒットを記録。この時も谷村はセルフカバー、このバージョンも紅白で歌っている。
モデル並みのプロポーションと透明感に満ちたボーカルで、颯爽と登場した杏里のデビュー曲。ソングライターとしても売れっ子だった尾崎亜美が、オリビア・ニュートン=ジョンの77年作品「Making A Good Thing Better(きらめく光のように)」を詞のモチーフに書き下ろしたナンバーである。当時こそスマッシュヒットにとどまったが、聴き継がれ、歌い継がれるうちに浸透していき、スタンダードナンバーとなった。杏里自身も94年のアルバム「16th Summer Breeze」(オリコン1位)などで何度もセルフカバー。96年には紅白歌合戦でも披露しているが、弱冠17歳で歌ったこのオリジナルバージョンも秀逸。
尾崎亜美も80年のアルバム「MERIDIAN-MELON」(22位)を皮切りにセルフカバーを繰り返してきたが、ここには2009年の「ReBORN」のバージョンを収録。ピアノと弦楽四重奏によるシンプルなもので、楽曲の持つピュアな世界がより際立っている。ストリングスのアレンジは、G-クレフのメンバーだった弦一徹が担当している。
70年代半ばにピークを迎えたフォークブーム。数多くの個性的なシンガー・ソングライターが登場したが、中でも異色だったのが、東大卒で銀行勤務と音楽活動を両立させていた小椋佳である。その彼が、抜群の歌唱力を誇る実力派歌手・布施明に提供したナンバーがこの曲。歌謡曲畑の布施がフォークシンガーよろしく、長髪にギターの弾き語りで哀愁たっぷりに歌い上げ、オリコンでは5週連続で1位を独走。年間ランキングでは2位を記録するミリオンセラーとなり、日本レコード大賞のほか、日本歌謡大賞、FNS歌謡祭など数々の音楽祭のグランプリを総ナメにした。
当初、表舞台に姿を現さなかったことでも話題を集めた小椋佳だが、この曲はシングル「めまい」のカップリングでセルフカバー。布施の相次ぐ大賞受賞で盛り上がる中、両面ともに話題を呼びオリコン4位を記録。ソングライティングが高く評価された小椋も、レコード大賞の中山晋平・西条八十賞を受賞している。
70年代半ばから進んでいったフォークソングと歌謡曲との融合。その象徴といえる大ヒットがこの曲である。歌謡界のプリンス・森進一と、フォーク界のプリンス・吉田拓郎という異例の組み合わせは、森が所属するレコード会社の企画から生まれたものだったという。当初はB面扱いだったが有線放送などから火がつき、A面に昇格。オリコン6位を記録するロングセラーとなり、ついにはレコード大賞と歌謡大賞をダブル受賞した。さらに紅白歌合戦では大トリを取り、翌75年には山口いづみ主演で映画化もされている。
拓郎のセルフカバーは、森のシングル発売よりも先にライブで披露されていたというが、レコード化されたのは賞レースが盛り上がっていた74年12月。オリコン1位を獲得したアルバム「今はまだ人生を語らず」への収録が最初である。ちなみに作詞は、拓郎とのコンビで多くの名曲を生み出した岡本おさみで、当初は「たき火」というタイトルで書いたという。
70年代の日本のミュージックシーンで、フォークとは一線を画す洗練された音楽性で新風を吹かせたユーミンこと荒井由実。75年には、自身のシングルやアルバムもヒットの兆しを見せていたが、その才能を広く知らしめ、人気を決定づけたのは他のアーティストへの提供曲からである。中でも、当時ばんばひろふみと今井ひろしの2人組だったバンバンに書き下ろしたこの作品は、オリコン6週連続1位の大ヒットを記録。アメリカ映画「いちご白書」をモチーフに学生運動のその後をセンシティブに描いた世界が、彼らの姿に重なるようにリアルな感動を呼んだ。
多数のカバーが存在するが、異色と呼べるのが内山田洋とクール・ファイブのバージョン。前川清をリードボーカルにした6人組の歌謡コーラスグループによるカバーで、フォークヒットを歌ったアルバム「ふれあいの時」に収録されていた。なお、2003年には作者のユーミンが松任谷由実としてセルフカバーしている。
ハイ・ファイ・セットは、赤い鳥のメンバーだった山本潤子、山本俊彦、大川茂によって結成されたコーラスグループ。当時、同じレコード会社に所属し親交のあった荒井由実が書いたこの曲でデビューした。クラシカルなアレンジと洗練されたハーモニーが支持され、卒業シーズンを彩るスタンダードナンバーとなっている。英語版を含め、枚挙にいとまがないほどのカバーが存在するが、ユーミン自身もハイ・ファイ・セット版の直後に発表したサードアルバム「COBALT HOUR」(オリコン2位)などでセルフカバー。現在のライブでもアンコールの最後に披露されることが多く、彼女にとっても特別な楽曲といえる。
岩崎宏美は81年のアルバム「すみれ色の涙から…」(16位)でもカバーしているが、ここにはカバーアルバムシリーズの第3弾「Dear Friends III」より、妹の岩崎良美とデュエットしたバージョンを収録。姉妹ならでは、よく似た声質によるハーモニーが絶妙な魅力を醸している。
沢田研二の妹役でドラマデビューした伝説のアイドル・三木聖子。歌手デビューにあたり、彼女の話をもとに荒井由実が書き下ろしたのがこの曲である。ユーミンにしか描けない少女性が詰まったナンバーで、話題には上ったものの、当時はオリコン47位とスマッシュヒットに終わっていた。
それから5年後、この曲をよみがえらせたのが、三木の所属事務所とレコード会社の後輩にあたる実力派アイドル・石川ひとみである。グラビアから司会までマルチな活躍を見せた器用な彼女らしく見事に歌いこなし、オリコン6位という初の大ヒットを記録。歌謡界にリバイバルブームを巻き起こした。珍しいことにオリジナル、カバーともに松任谷正隆がアレンジを担当。バックミュージシャンも同じで、彼が所属していたティン・パン・アレーのメンバーが中心だったという。ちなみにユーミンも、96年に荒井由実名義でシングル化。こちらも松任谷正隆の編曲でオリコン5位を記録している。
80年に27歳でデビュー。抒情的な楽曲と、包容力のある歌声が魅力だった村下孝蔵。ギターの名手としても知られる彼は、99年に46歳で急逝してしまったが、最大のヒットがこの曲である。
まず83年2月に村下のオリジナルがリリース。有線放送やラジオなどで静かな支持を得ていた中、村下ファンだったという三田寛子と、この年歌手デビューを果たす中日ドラゴンズの田尾安志が花王トニックシャンプーのCMでデュエット。4月には競作という形で三田のカバーシングルが発売され大きな話題となり、そろってチャートを上昇。三田のバージョンはスマッシュヒットにとどまったが、村下の方は半年以上にわたるロングヒットを記録。ついにはオリコン3位をマークしている。中2の初恋の思い出を曲にしたというが、男女それぞれの立場で、淡い恋心の表現を聴き比べてみるのも一興である。なお、彼の歌声と人柄を偲ぶファンは多く、毎年メモリアルイベントが開催されている。
1980年の引退から30余年が過ぎても、伝説の歌姫として愛され続ける山口百恵。76年の「横須賀ストーリー」など阿木燿子+宇崎竜童のコンビによる一連の楽曲でアイドルから脱皮したが、また新たなターニングポイントとなったのがこの曲である。書き下ろしたのは、フォークデュオ・グレープからソロに転向し、「雨やどり」で大ヒットを飛ばしたさだまさし。彼からの強い希望によって実現したのだという。
静かな美しさや和風な魅力が感じられる1曲で、当時の百恵は弱冠18歳ながら、嫁ぐ娘と母親の心情を余すところなく表現。オリコンでは3位まで上昇し、日本レコード大賞では歌唱賞を受賞。さだ自身も、翌年のアルバム「私花集(アンソロジイ)」(1位)でセルフカバーした。歳月を追うごとに評価が高まり、百恵バージョンは95年に東映映画「日本一短い母への手紙」のテーマ曲として再度シングル発売。「いい日 旅立ち」とともに「日本の歌百選」にも選出されている。
作者の大瀧詠一が得意とする“ウォール・オブ・サウンド”の筆頭に挙げられ、永遠の名曲といわれるスタンダードソング。初めてレコード化したのは、カリスマ的な支持を受ける吉田美奈子。76年に発表したアルバム「FLAPPER」(オリコン30位)で歌ったのがオリジナルとされ、そもそもはアン・ルイスのために書かれた作品だったという。コーラスとして山下達郎や大貫妙子らが参加、78年にはシングルカットされている。
英語版を発表したアン・ルイスや大瀧プロデュースのシリア・ポールのほか、岩崎宏美、DEEN&原田知世など、多彩なカバーが存在するが、最もヒットしたのはラッツ&スターのバージョン。この曲が流れたライオン・クリスタのCMでは、リーダーの鈴木雅之の歌唱シーンとメンバーの人形がオーバーラップ。オリコン8位をマークし、紅白歌合戦にも初出場した。ちなみに鈴木はソロアルバム「CARNIVAL」(10位)でも取り上げたほか、実姉の鈴木聖美もカバーしている。
山口百恵が引退した80年にデビュー。交代するかのようにアイドルの頂点に上り詰め、シングル24枚連続オリコン1位など歌謡史に残る記録を打ち立ててきた松田聖子。作詞家の松本隆を軸に、ニューミュージック系シンガー・ソングライターたちとのコラボレーションでヒットを連発したが、これもそんな1曲。「赤いスイートピー」などと同じく、ユーミン(呉田軽穂はペンネーム)の提供曲である。オリコンでは13作目の首位に輝き、ザ・ベストテンでは自己最長の8週連続1位を記録。自立をめざす女性像はキャラクターと重なり、新しい生き方として同性からの支持を一層高めていった。
この曲を2006年の松田聖子カバーアルバム「Jewel Songs〜Seiko Matsuda Tribute & Covers〜」(オリコン48位)で歌ったのが、大の聖子ファンだというChara。独特のスイートボイスで、新たな命を吹き込んだ。なお、聖子にずっと楽曲提供をしたかったというCharaの夢は、2013年のシングル「LuLu!!」とアルバム「A Girl in the Wonder Land」で実現している。
69年にデビューし、長いキャリアを誇るブレッド&バターは岩沢幸矢、二弓の兄弟デュオ。これは旧知の仲である松任谷由実がペンネームで書いたもので、76年から4年近く音楽活動を休止していた彼らの復帰シングルとなった作品である。歌詞の舞台は彼らが神奈川県茅ケ崎で開いていた「カフェ・ブレッド&バター」で、学生時代とは進む道が違ってしまった男同士の友情が描かれている。「『いちご白書』をもう一度」の主人公のアナザーストリーといったイメージも漂う。81年にもシングル化され、湘南サウンドのイメージを定着させた。2003年にはユーミン自身もセルフカバーしている。
桑名晴子、Something Else、大野真澄らリメイクは多いが、稲垣潤一は、ユーミンが書き下ろしオリコン26位を記録したシングル「オーシャン・ブルー」のカップリングでカバー。ちなみに2008年には平川地一丁目がカバーし、この曲をモチーフにした舞台も上演。その時にはブレッド&バターも出演している。
フォークや伝承歌、ソフトロック、ポップスなどジャンルを超えた音楽に取り組み、同時代のフォークグループとは一線を画していた赤い鳥。ハイ・ファイ・セットと紙ふうせんの前身としても知られる彼らだが、最も有名なのがこの歌である。初出はシングルB面で、収録アルバム「竹田の子守唄」はオリコン4位をマーク。音楽の教科書に採用されたり、サッカー日本代表のテーマソングに起用されたり、幅広い年代に親しまれ「日本の歌百選」にも選ばれている。
40年以上経ってもカバーされ続けているが、オリジナルから20年後にヒットさせたのが川村かおり。フジテレビ系のバラエティー番組「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」の1コーナーでオンエア。深夜ラジオ「オールナイトニッポン」のパーソナリティーを務めていたことも後押しし、オリコン5位まで上昇するヒットとなった。彼女はその後川村カオリに改名するも、2009年に38歳という若さでこの世を去っている。
日本語のロックを追求してきた佐野元春にとって、初期の代表曲であり4枚目となるシングル。彼は、81年に参加した大滝詠一のユニット・ナイアガラ トライアングル を契機にブレイクを果たしたが、この曲もそのタイミングで世に浸透。幅広く支持されるようになった。82年に発表された同名アルバムはオリコン最高4位をマーク。さらに90年にはJR東海のCMに起用され、CDシングルとして再発売。この時は27位まで上昇する再ヒットとなった。
名曲ゆえにカバーも多く、佐野のバックコーラスを務めたこともある白井貴子、曲提供を受けていた山下久美子、さらには元レベッカのNOKKO、大黒摩季ら女性ロッカーが好んで取り上げているが、ここには2008年に発表された中村あゆみのバージョンを収録。自身で選曲を行った初のカバーアルバム「VOICE」(オリコン最高27位)に収められていたもので、全身からふりしぼるような独特のハスキーボイスによって、新たな世界が広がっている。
グループサウンズ時代から音楽活動を続け、スタジオミュージシャンとして活躍していた土屋昌巳。後に作曲家へと転身し、美空ひばり「川の流れのように」などの名曲を生んだ見岳章。彼らがメンバーだった一風堂は79年にデビューしているが、この曲で初ヒットを記録したのはそれから3年後のことである。'82カネボウ秋のキャンペーンソングとなり、オリコン2位をマーク。ブリティッシュなニューウェイブ・サウンドが評判を呼んだが、ブレイクのきっかけとなったのはそのCM。当時、ティーンエイジャーながら人気絶頂だったハリウッド女優、ブルック・シールズを起用。彼女がこの曲に合わせてダンスを披露したのである。
90年にはイカ天出身のバンド・カブキロックスもリメイクしているが、再び大ヒットしたのは97年のビジュアル系バンド・SHAZNAによるカバー。ボーカル・IZAMの妖艶なルックスと歌声がアイドル的人気を呼び、オリジナルと同じオリコン2位を記録している。
70年代にフォークの帝王と呼ばれて以来、不動の地位に君臨する井上陽水。これは当初1982年にシングルとして発売され、同年のアルバム「LION & PELICAN」(オリコン13位)にも収録されていたナンバーだが、一躍有名になったのは6年後の1988年である。田村正和、岸本加世子、桜田淳子らが出演し、高視聴率を記録したフジテレビ系ドラマ「ニューヨーク恋物語」の主題歌に起用され、CDシングルとして発売。オリコン11位まで上昇するとともに、有線放送やラジオでも幅広く支持を受けるロングヒットとなった。
これを2004年のトリビュートアルバム「YOSUI TRIBUTE」(9位)でカバーしたのが、80年代のバンドブームを牽引したロックバンド・UNICORNのボーカルであり、ソロとしても活躍を続ける奥田民生。陽水とはPUFFYのヒット曲を共作したほか、97年にユニット“井上陽水奥田民生”を結成、ツアーも行った仲である。旧知の関係が反映されたような、独特の間合いを持った歌唱が実に魅力的である。
原宿・ホコ天出身のバンドで、ジャンルを超えて独自の世界を確立したTHE BOOM。これはボーカルの宮沢和史が沖縄をイメージして書いた作品で、三線の音色をはじめ随所に琉球情緒があふれたナンバー。元々は92年のアルバム「思春期」(オリコン3位)の収録曲だったが、方言で歌った“ウチナーグチ・バージョン”のシングルが沖縄・瑞穂酒造の泡盛のイメージソングに起用され、オリコン14位まで上昇。そのヒットのピークに、この“オリジナル・バージョン”(4位)もシングル化された。チャートでは2曲同時にトップ20入りを果たし、島唄ブームを巻き起こした。セルフカバーも多く、2002年のシングルは再びトップ10入り。発売20周年となる2013年にも新録音している。南米でもカバーされ大ヒットを記録したが、数あるカバーの中でも圧倒的な存在感を持つのが加藤登紀子。競作となったシングルだが、コーラスをTHE BOOM自身が担当。まさにオフィシャルカバーと言えよう。