松崎ナオ2年半ぶりとなるサードアルバムをリリース。

2001年遂に完全復活!

松崎の計り知れない唯一無二の才能が花開いた珠玉の作品集「虹盤」を届けます。小林建樹、石井マサユキ(TICA)が参加したオープニング曲「パピコ」、シングル「雨待人模様」、「月と細胞」ほか全13曲を収録。


松崎ナオ、待望のニューアルバム『虹盤』はタイトル通り彼女の才能が多彩なプラズムとして放たれる名盤になった。自分でも手におえない漂白された悲しみに振り回されて、「作らされていた」ようなデビュー初期の曲とくらべると、自分の感情をしっかりと音楽に着地させているように思う。アコースティックで静かなバラードから、ざっくりとしたバンド・ダイナミズムをいかした楽曲と、2方向に大きな振り幅のある仕上がりでソロ・アーティストとして深度と自由度をいかんなく突きつめている。

特に6曲目の“花魁”が素晴らしい。この曲は、松崎ナオという女性アーティストが歌ってきた、そして、これからも彼女が歌っていくテーマが集約された「アーティスト・松崎ナオ」の自伝の中核を成す1曲だ。

デビュー曲の“花びら”から一貫して存在してきた「花」のイメージ。女性のメタファーなのか、咲いては散っていく生のメタファーなのかわからない。多分、両方だろう。彼女のセクシャリティのあり方は、動物的なそれではなく、風の力とか偶然の力をかりなければお互いに交流できない「花」という言葉がよく似合う。音楽的にいうのなら、音の圧力や壮絶なヴォーカリゼーションではなくて、かすかなノイズと重層的なサウンド・メイキングで感情の機微を描き切る、そんな音楽だから。花びらがいくつも重なりあって、大きな美のイメージを作るような音楽だから。

過度にエキセントリックな女性シンガーが多いが、松崎ナオは本能的に知っているんだろう。誰かを想うことそれ自体が狂おしくて、切ないということを。個性だけが売りの女性アーティストはたくさん出てきているなかで、彼女ほどコピー化/記号化しにくいアーティストはいない。マーケティング的には大変だろう。しかし、僕はこのアルバムを強く支持する。情念とか、フックの強いイメージに逃げず「本質」と向き合っていると思うからだ。お互いが孤独をかかえたまま、奇跡的に触れあう、そんな愛と性のあり方。「花」という言葉に象徴される生や性の美しさ、儚さ、妖しさ、決して触れ合うことなき根源的な孤独さが、13のアングルから切り取られたアルバムだ。いつまでも「残る」作品だろう。



其田尚也 / ROCKIN’ON JAPAN


松崎ナオの、新しいアルバムが届いた。1枚の盤が出来上がるというのは、こんなにも重みのあることなのか。改めて、そう思う。1998年3月にデビューし、その年、大きく注目されながら、98年秋の2作目『正直な人』を経て、紆余曲折すること約2年半。でもようやく手元に届いたその『虹盤』を聴いて今、晴れやかに思う。やっぱりいい声をしている。ましてや、曲は粒揃い。ニューアルバムなのに早ベスト盤に匹敵する程だ。それもそのはず、彼女はアルバムにして2枚分もの録音から、この1枚を作ったのだから。

松崎ナオは、すぐふざける。そして誰もが振り返るくらいの大声で、やたら笑う。酒の席にいても、いつの間にか話の中心にいるような子だ。一見、大雑把。大雑把に、半ば地で、いい加減に振る舞う。

もう一人の松崎ナオは、とても直観力のある子だ。そういう時の彼女は、いつも一度グッと押し黙る。本人はまるで気づいていないだろうけど、その一瞬の無意識状態。そして次に口を突いて出てくる言葉の破壊力。「m-flo、あれは売れるだろうね」とか、「最近ライヴバンドで、おもしろいバンド、いる?」「...54-...55?(*注:54-71のこと)」とか。もちろんこれはまだ、だーれも騒いでいなかった頃のことだ。ヘヴィーリスナーには思えない彼女だが、見抜く力は確か。この人には、プロデュース力があると思う。

またこの人は、音楽のコトに限らず、大雑把に振る舞いながら、誰に気づかれることなく、人と人、自分と他人との距離をはかれてしまうところがある。そんな時、彼女はいつもポジティヴな対処をする。声のトーンや言葉の幾つかで。その勘の良さ、瞬発力。そんな大雑把な振る舞い。その実、とても気配りができる。

それで僕がいつも思うのは、その、誰に気づかれることのない所、だ。たぶん、松崎ナオの音楽は、そこから来ている。今思えば、彼女は10代の頃に書かれたその音楽に対してコントロールが利いていなかったのかもしれない。彼女の音楽に強く感じた不安定感と安堵感。そして何よりも松崎ナオ本人の、“私は確かにここにいるけれど、私はここの何処でもない誰か”といった存在の危うさ。99年、初めて彼女を撮影した時のフォトグラファー住田芽衣が、後日セレクトをしながら、「この子は危ういわ?」と言ったのを、よく覚えている。(このアルバムに収録されている中で)10代の時に書かれた「風になる」「光が生まれる日まで」は、そんな彼女が音楽の陰影としてよく出ている気がする。

少し、このアルバム『虹盤』を録り始めてからの約2年間を振り返っておこう。彼女にとっての2年間、それは決してラクなものではなかったはず。レコード会社的な事、スタッフの事、自分自身の事、そんな中でのことだったから。でも彼女は音楽を続けた。というよりも、自分を確認できる一番確かなものは、或る時から音楽だったはず。その、変わりようもない自分と音楽との不可分な関係。それなのに自分の外側で、事は望む方向には向かわない。

99年夏を越え更に断続的に続いたレコーディングは、とうとうその年の冬、暗礁に乗り上げる。この時既にアルバムにして2枚分弱にもなっていた曲は、こうして一度宙に浮く。そんな中で、この一連のレコーディングを通して最後に完成したのが、「月と細胞」だった。状況は厳しかったわけだが、彼女自身にとっては、突破口の見えた曲だったと言う。その後2000年2月には、更に佐久間正英プロデュースによるレコーディング。99年以来、というか正確に言えば、前作『正直な人』の頃からの試行錯誤は、この段階でまだ続いている。それは、音楽の幅を広げようとする非常に前向きな試行錯誤だったわけだが。しかしその直後4月に、スタッフが一新。再び状況作りに。でも今度は出来る限り、彼女自身のコントロールを利かせながら、その中で新たな作曲、レコーディングを重ねる。そうして少しずつ自分の思う方向へ。2000年秋には、その表れとも言える初の自主企画ライヴも行なった。こうしてペースを整えた所から出てきたのが、「花魁」「あしたに花」「パピコ」。『虹盤』は、そのベクトル上にある。

このアルバムは、おそらく、人知れない何度かの挫折を乗り越えて完成したアルバムだ。ほとんどの曲は、作曲とリリースとの時間もズレている。でも、かつて“自分”の事で精一杯だった彼女は、そうした経過の中で“私とあなた”(“自分”と“世界”)に至った。その地点でのアルバムだ。とても多くを見渡せるような気持ちでの。そんなメンタルな広がりは、アルバム中最新の作曲である「パピコ」のパストラルな透明感によく出ている。このアルバムは、だから或る意味、松崎ナオによる松崎ナオのリミックス的な性格もそなえているとも言えるし、何より、かつての「危うさ」、つまり“自分”の昇華なんだと思う。



MMMatsumoto / MARQUEE