ハーツフィールド空港に到着して入国審査の列に加わる。N氏の姿が見当たらないので画伯とふたりで並ぶ。
 平凡な容姿かつ常に保守的な服装のぼくがこれまで異国の入国審査官に長く足止めさせられたことは殆どない。わずか2回。1回は5年ほど前にロンドンからボストンに入る時、寝ぼけたまま所持金をひと桁間違って1万ドルと言ってしまったから。そうでなくても唯一のアジア人乗客だったから目立っていたのだろう。これはやむを得ない。すぐに間違いに気づいてその旨を告げたら取調室から放たれた。笑い話である。
 そしてもう1回が3年ほど前、場所は他のどこでもないハーツフィールド空港。入国審査場でぼくのすぐ前に並んでいたのは、成田からの機内でもそばの席に座っていた著名な自動車評論家だった。彼が審査官とひと悶着起こしたのである。入国理由を聞かれて彼は「バーミンガムで取材がある」と答えた。怪訝に思った審査官が職業を問う。堂々と「モーター・ジャーナリスト」と答えてしまったのが運の尽き。ならばジャーナリスト・ビザがあるはずだろうと問われた彼が、メディアに登場する時と同じ尊大な態度で「そんなもの必要あるのか。俺が今年の頭にニューヨークに取材で行った時はすぐにパスしたぞ」と答えたものだから大騒ぎになった。
 髪に白いものが混ざる評論家は決して巧みな英語の使い手ではなかった。開き直ったのか、途中からは日本語しか使わなくなった。勇敢な白人審査官は審査場の控え室から日系アメリカ人とおぼしき中年女性を呼んだ。アメリカに長年住むアジア人女性独特の濃いメークに、ぼくはしばらく目を奪われた。通訳を得た評論家は、今度は周囲の日本人乗客にわざと聞こえるような大声で「アメリカは自由の国じゃないのか」と講釈をぶった。中年女性はそれを英語に訳さないかわりに、昭和40年代の新東宝映画に出てくる女優のごときイントネーションで評論家に向かって言った。「あなたさまがニューヨークでお咎めにあわなかったのは、ニューヨークの審査官があなたを見落としていただけですね。ですからあなたはここではビザの金額をお支払いになられるか、あるいはここから日本にお帰りになるかでございます」と。
 尊大なる評論家が再び荒れ狂ったのは言うまでもない。そしてまた言うまでもなくさっき中年女性が出てきた控え室へと連行された。評論家には日本からも多くの同行者がいた。どうやら同業の後輩らしい。あるいは自動車雑誌の編集者だろうか。彼らは先輩の危機を感じ取ったようで、召集をかけられたわけでもないのに控え室に続いた。そのうちの最年少とおぼしき、緑のセーターを着た30歳前後の男が中年女性に訴える言葉が聞き取れた。「これはね、〇〇〇〇という自動車メーカーに依頼されてやってる仕事なんです。だから正確にいうと取材じゃない」
 彼女はにこりともせずに「ならばあなたはそのままゲートを通ればよろしいです。でもあの方は取材と言いました」と老評論家のほうを視線で示した。緑のセーターの男は苦虫を噛み潰したような顔で後に続いた。連行される彼らに審査ゲートの向こうから日本の自動車メーカーのマークが入った紙袋を手にした日本人の悲痛な叫び声が響く。「せんせーい、お金なら私どもがお支払いしますから〜」
 醜悪な光景だった。だがその光景には醜悪さを越える生々しさがあった。子どもが鼻をつまみながらでも野糞の艶を確かめたがるように、ぼくは控え室に次々と吸い込まれて行く日本人たちを眺めていた。審査の順番が回ってきてもぼくは控え室のほうが気になってちらちらと見ていた。さきの白人審査官はぼくのパスポートを手にとってぱらぱらとめくってみせたかと思うと、「1月にニューヨークに行ってますね」と訊いた。虚をつかれたぼくは「は、行きましたっけ?」と問い返した。すると彼はぼくの目を射るように見つめ、「あのジャーナリストたちと同じグループですか」と訊いた。「いや、ぼくはジャーナリストといっても音楽ジャーナリストだから」
 あ、と気づいた時にはもう遅い。ジャーナリスト・ビザがないことを指摘された音楽ジャーナリストは、数分前に自動車評論家が言われたのと同じ台詞「このまま日本にお帰りになりますか」を耳にすることになった。控え室で自動車評論家集団に再会し、そこでビザ発行担当者がランチから戻ってくるまでの1時間あまりを無為に過ごしたのである。












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