2003.09.29[17:52] 乱文ながら いとうせいこう
 ほんとにね。
 これまで俺は彼女がいなくなったことについて、限られた場所でしか物を書かないようにしていたのだが、成り行き上しかたがないので少し書きます。というか、このところ彼女を惜しむ声がより切実になっており、それは以下の真実にかかわるのだろうと思うと、俺もいつまでもショックでただ黙っているというわけにもいかないと考えるからです。
 彼女が指摘し続けたことのひとつに、テレビをめぐる国民的妄想の恐ろしさがある。この人は売れているというくくりでテレビに出れば、妄想は実際にその人をスターにするという奇妙なシステムですね。カノー姉妹なんかが好例だけれど、あたかも日本神話が戦時中に歴史そのものと信じられていたように、その人物が真実セレブなのかどうかは問われず、テレビ世界と視聴者との共犯によって疑似的な世界観が一瞬のうちに出来ていくのですね。出来たら最後、真面目に彼女たちの出自を問うことは許されなくなる。現人神として隔離され、もてはやされ、君臨するわけですね。あるいは逆に、その罪があいまいであるにもかかわらずバッシングされ続ける。正確に言うと、バッシングごっこが継続される。
 単純にこの仕組みを「洗脳」といってしまうと、事態の気味悪さがむしろ消えてしまうでしょう。なぜならば、視聴者の多くはあえてそのカラクリに加担している感触があるからで、これは要するに神経症の類いとして分析されなければならない。というか、香山リカなどは別方面からこの事実を指摘し続けているわけですが、だからといってこの集団的な病いが治っていくわけではなく、刻一刻と事態は深刻化しているわけです。
 例えば、引きこもりとか突発的な暴力事件は、実のところこの“テレビと国民の共犯関係によって成立する疑似的な世界観”から外れた人々の、それこそ切実な行為なのではないかと近ごろ俺は思うのです。真綿で首をしめるような、根拠のない世界秩序。真実を普通に見ることの出来る人々は、そんな世界秩序を当然認めるわけにはいきません。しかし、反世界的な革命を起こす対象は決して見えてこない。なぜならテレビも視聴者も“いつの間にか”、その集団神経症的な世界観を形成するからで、いわばどちらが主体的に虚偽の世界を作ったかは誰にも言えないようになっているからです。
 共犯関係によって虚偽的に作られたこの世界に対して「王様は裸だ」と言っても効果がない。なぜなら“王様が裸”であることはテレビ側も視聴者側も当初知っているからで、彼らは瞬間的にその事実を覆い隠して神話世界を作り、能動的にその虚偽を信じようとするのです。したがって「王様は裸だ」と言ったところで、「知ってるよ」という答えが、しかももはやその事実を無意識の底に隠し、本当は「王様は裸ではない」と信じきった態度によって返されるのみです。
 このような世界に対して、まともな人間は対処を失うでしょう。自主的に世界から追放され、むしろ自分が妄想を見ているのではないかとさえ思いながら生きていくより他なくなってしまうのです。
 ナンシー関はこのような世界の成り立ちに対して、唯一有効な言葉で「王様は裸だ」と言えた人でした。テレビにひたすら身をひたし続け、ふんだんに具体例を挙げながら、抜群の論理力をもって彼女は集団神経症の世界を切り裂いていたのです。妄想の中心にぐんぐん入っていって、そこから「これはすべて嘘だ」と言ってのけた人。おおかたのテレビ批評家は妄想から身を離しているつもりで危険をさけてそこを遠巻きにし、実は妄想に呑み込まれているに過ぎません。あるいは、言葉に効力のないまま世界を切り裂いているつもりになり、矮小化されたテーマを得意げに語るだけです。
 桜井の危機感も、このような希有な人を失ったという歴史的な事実に関係しているのではないか。
 謎の共犯関係によって、自分には納得のいかない世界が日々形成されていることへの不安。
 本当のことを言えば、誰もが“自分はこの世界が虚偽によって成り立っていることを知っているのだが、誰かが信じているのだから自分も信じざるを得ない”と思っているはずです。しかし、もはや誰も妄想を突き崩すことが出来なくなっている。ナンシー関を失ってしまったから。彼女の使ったような有効な言葉でこの状態を切り裂かないかぎり、アンバランスな世界は肥大し続けるでしょう。そこから外れた人間は、異常者として扱われ続けることも確実です。
 テレビとの共犯関係で作られたのとは違う、もうひとつのオルタナティブな世界を作ることは可能か。
 俺はもはやそれは不可能ではないかと感じつつ、しかしあえてテレビの世界に身を置くことにしています。
 少なくとも、身を離しているふりは卑怯だと思うから。
 けれど、だからといって妄想の方向へと沈みつつあるこの巨大な世界をどうにか出来るわけでもないのです。
 事態はおそろしいほどに悪化し続けている……。

 ほんとに、どうしたらいいのだろう。
 一気に書いたので乱筆乱文です。時間をかけてあるべき地点へと論理を詰めていくことが出来ないのは、俺の中に悪しき無力感があるからで、それを考えてもやはりナンシーの胆力はすさまじいものだったと感じざるを得ません。

2003.09.24[16:55] ずっとテレビが好きだった 桜井秀俊
 ずっとテレビが好きだった。
 正確には、テレビの世界で起こっている様々な出来事にずーっとクギ付けでした。
 好きなもんでつい本気で観てしまい、愛しいテレビがその“異常な幻想の世界(04.21号「桜井よ、行け」より)”っぷりを発揮する不可思議な場面に出くわすと、普通にストレスを溜めている自分に気づくのです。対人間とのやりとりなら、それはどうなのこうなのよと、すったもんだのなかで何とか気持ちに折り合いを付けたりも出来るのですが、いかんせん相手はテレビ、地球を代表する情報の一方通行マシーン。“何故あのひとがあんなにも熱く陸上を語るのか、何故に毎回彼なのか。”“えっ、あのひといつから阪神ファン?”“歳を重ねる度にどんどんNHKが好きになるのは一体どういう訳か”…等々、こんなに感情を揺さぶられているのに、こっちからはTVになにも語りかけられないなんて。TVはなにも答えてはくれないなんて。友人とのムダトークの中でこれら一つ一つを議題にしても、我々レベルの分析力で解決するには問題の多くはあまりにも難解であり不可解であり、スッキリできるケースは殆ど無く…。
 最近本当によく思うのです。こんなとき、ナンシー関さんがいてくれたら、と。これまで一体いくつの溜飲を、彼女のあの見事としか言いようのない文章に下げて貰ったことでしょう。「そーか、うーむ、さすが、スルドイ、しかも面白い!」ひとりガッテンしてすっきりしていた日々はもう戻らない。そのかわりに訪れたのは溜飲を雪だるま式にため続ける日々。その重さを感じる時、彼女の仕事の素晴らしさを再認識し、もう新作に出会えない悲しみを知るのです。
 ブラウン管(もう液晶?)から飛び散る危険な毒を楽しみながら僕らは一方でマトモである事を望む。そんなワガママな望みを叶えてくれる魔法の常備薬、それが彼女の作品達だったのです。それがあったからテレビは2倍楽しかった。
 という訳で、現在とてもバランスのよろしくないTVライフを過ごしております。このまま毒にヤられっちゃうのか、めんどくさくて観なくなるのか。観なくなる、それはねーか。とにかく、俺は強く強く思うとです。ナンシー関の仕事は偉大であった、と。強く強く願うとです。頼むから誰か彼女の志を継いでくれー!と(ひっそり勝手に浅草キッドのお二人にそれを望んでいる)。いや、難しいのは重々承知ですがそこをなんとか、誰か、助けて!スッキリさせて!

2003.09.07[22:06] 「歌」について いとうせいこう
 やってるじゃないですか、ロックンロールのためのひそかなライブ。
 桜井君のいう「歌力」で思い出したけど、何年か前に、明治にペルーへ渡った日本人移民の過去を追ってかの地へ行ったことがあるんだよね。『岩だらけの懐かしい星』っていう本になってるんですが。
 日本人移民の施設が首都リマにあってさ、当時俺はそこに出かけたわけですよ。ちなみに、あの大使館占拠事件のとき、まさにその施設で取材したことのある人が人質になってて心配だった。すぐ解放されたんでよかったんだけど。
 でね、俺は取材時、ある一室で忘れられない光景に出会うんだな。
 小ホールみたいな感じのがらんとした部屋だった。そこにふと足を踏み入れてみると、並んだパイプ椅子の幾つかに老人たちが座っている。どの背中も例外なくピンと張っていて、どこか異様な緊張感がみなぎってるんですよ。この世の感じがしないというか、非現実的というか、俺はそのホールにただよう雰囲気に凍りついたんだね。一体ここは何をしている部屋なのだろうか、少なくとも明らかにここは俺が入ってはいけない場所だ、と本能的に感じたものです。
 老人たちの前方にはテレビモニターがありました。で、そこに「紅白歌合戦」のビデオが流れているんだよね。二世か、あるいはかなり年配の三世の移民たちは、それこそ直立不動の姿勢になりかねない真剣さで紅白を観ていたのでした。それはテレビ鑑賞というより、厳粛な儀式としか俺には思えなかったものです。
 人類が滅亡したあと、他の星にかろうじて逃げのびた人たちの子孫が、先祖によって地球から持ち出された古いビデオを観ているような感じ。でも、やっぱりそこにあるのは「歌」なんだよね。笑ったり踊ったりはしていないけど、彼らは地球の過去の「歌」を儀式的に聴くことで自分のルーツを再構成しようとするわけです。いや、もちろん実際は数ヶ月前に日本で放送されてた紅白だし、ホールにいたのは移民の皆さんで、決して他の星の話なんかじゃないんだけどね。
「歌」は何かを失った人たちに強力な作用をもたらす。諸刃の剣として、それはナショナリズムを喚起しさえする。本当に魔力を持った存在なんだよね。ある意味、危険ですよ。すべての「歌」は危険。パンクの格好をしてるミュージシャンだけが危険なんじゃなくて、「歌」にたずさわるあらゆる人がその危険な力を等しく分け持っているのだと俺は思うのです。
 その危なさは桜井君のいう「作り物」だからこそ生じてもくるのだけれど、「歌」はもうひとつ、「言葉とメロディ」という本来的に人の理性を破壊する物質、情報から出来ているのですね。こいつは核融合みたいな危なさだよ。君たちはそういうことの起きる原子炉の中で日々仕事をしてるんだよ。
 つまり、「歌力」は「歌」を作る労働者の、危険な作業場からこそ生まれてくる。すごいことだぜ、これは。
 だから桜井、体と心には十分注意してくれたまえ。で、下手な融合だけは起こさないようにね。

 さて「自由講」だけど、考えたらこれは下の世代が次々入らないと、ただの積み立てになっちゃうんだよね。それと資産運用が不可欠になってくる。じゃ保険会社とかに頼りゃいいじゃないかってことになるんだよ。
 地域通貨を使って、こうした金融資本なしではいられないバビロン・システムを食い破ろうとする運動はある。つまり利子そのものを否定する経済運動なんだけど。ひょっとしてそれが「自由講」って名前にふさわしいのかもしれないと、こないだふと考えました。
 

2003.09.04[16:09] 続・ロケンロール 桜井秀俊
 ロケンロール体験ではないけれど“ロケンロールと作り物”問題を痛烈に感じた思い出が一件ありまして、私個人的にはその思い出を風化させたくないという気持ちを持っており、非っ常ーに長くなるのですが今回は自分の為だけに(いつもか)書き留めておこうと思います。けど付き合って。

 2001年の暮れに行った真心ブラザーズのコンサートから約一年、僕は一度も人前で演奏をしておりませんでした。そんな日々は中学3年以来全く無かったもので、全身が火照って疼いて仕方のなかった2002年は暮れの話。
 いつものように同級生K君(今でもプロのシンガーを志す35歳。尊敬する人は桑田佳祐さん。)の営む近所のバーで常連のUさん(自称リアルパンクス。40を越えて人生考え直し中。)と3人、カウンターを挟んでエロ話に花を咲かせていたところ、二人組の女の子のお客さんが入って参りました。福祉の仕事をしてるという彼女達、その夜の話題は年末のレクリエイションをどうするか。いわゆるホームヘルパーというヤツで月に何度か介護の必要な地域のお年寄りを集めて福祉センターみたいな所でフロ入ったり、みんなでゲームして盛り上がったりするというもの。そんな彼女達とお年寄りの2002年をシめるにふさわしいイベントは何かないものかと、小さな胸を痛めていると聞いたら黙ってられなくなるのが男子たるもの。酔ってるしな。
 早速K君(ボーカル)、Uさん(アコースティックギター)、私(同じくアコギ&カズー)というバンドを結成。ライブをぶちかまして奴らジジイババアどもを熱狂の渦に巻き込んでやろうと。溢れる自己顕示欲と彼女らにモテたい気持ちに後押しされ、翌日から僕らはその店で入念なリハーサルを繰り返し(営業中に)万全の体勢で本番に臨んだのです。
 『演目は全4曲。1曲目「水戸黄門」のテーマ。Amでボレロを刻みつつ、3人登場、異常に低いキーでメンバー全員2番までしっかり歌いきる。2曲目「ラストダンス」。ブーガルーのリズムで越路吹雪よりはショーケンを意識したバージョン。恋のスウィート&ビターをご老人達、忘れないでねというメッセージ。3曲目「島唄」。これはK君のカラオケ18番。後半タテノリになってメンバー全員必死になる場面が見どころ。アレをドラムなしでやるため、どこから見ても無理矢理盛り上げようとしている様がいじらしい。ひととおり場が温まったところで、ラストにみんなで「上を向いて歩こう」を唄っておしまいおしまい』 というのが僕らの描いた筋書き。トータル20分弱に押さえた、我ながらタイトかつスムーズなセットリスト、完璧完璧なんて調子こいておったのです。ところが。
 当日午前11時、桜木町(山崎まさよしさんの「ワンモア・チャンス」で有名な!)は野毛山に建つ老人福祉会館(って建物だったと思う)に到着した時から我々の持っていた楽勝根性は狂い始めました。入口の自動ドアをくぐると、店に来たホームヘルパーの女の子2人に両肩を支えられながらニッコリ笑う小さなお婆ちゃんに出迎えられる。僕らに日本酒の差し入れを用意して入り待ちまでしていたそのお婆ちゃん、名を水島さんといってその昔は横浜で芸者さんをしていたという。こういった遊び事が余程好きなのだろう、あんまり目をキラキラさせて我々を歓迎してくれ、話しかけるとうつむいて照れてさえいる。つい「かわいい…」と思ってしまいました。と同時に百戦錬磨の演芸会のプロに差し入れまでして貰った手前「外せねぇ…」というプレッシャーに襲われ、一同しっかりビビりだす。
 学校の教室より少し広いくらいのフロア、そこに扇状にパイプ椅子を並べて作られた客席、その光景がまたスゴい。車椅子のままピクリとも動かぬおじーちゃん、移動式ベッドに横たわったまま点滴受けてるおじーちゃん、大丈夫かー!俺たち歌ってる場合かー!?一方、水島さんをはじめとする、あらかじめ配られた鳴り物を思い思いのビートで叩きまくるおばーちゃん軍団。ブーガルーをキープするのが著しく困難な状況に、Uさんは完全に我を失い、シンガーであるK君の表情も不安の色に曇りだす。
 ここはプロのギタリストとして弦も切れんばかりの激しいストロークで音量を稼ぎ、何とかビートをリードする俺。大変だけど何とか場は盛り上がっている。やっぱみんな宴会事に餓えてんだなー、なんてうっすら思いつつ、ラストの「上を向いて歩こう」に突入した瞬間。“車椅子のままピクリとも動かぬ”じーちゃんの両眼から大量の涙が、同時に両鼻の穴から大量の鼻水が、まさにダムの決壊といった勢いで溢れ始めたのです。かけ寄り必死で水を拭うスタッフの方々。一声も立てずこちらを見据えながらひたすら水を流し続けるじーちゃん。その瞬間から「上を向いて歩こう」という歌が、何だか得体の知れないエネルギー体に変身しました。20人ちょっとのじーちゃんばーちゃん達それぞれの“ひとりぼっちの夜”が“雲の陰の幸せ”が会場の空気を一気に支配してしまう様。よく見るとみんな小さく口ずさんでいる。“泣きながら歩く〜♪”のリフレインの中で僕ら3人は否応無しに同じ感動の渦に放り込まれていました。
 帰りしなまだ明るい裏通りのギョーザ屋でビールをあおりつつ「何だかエラい体験しちゃったね。」と放心した我々。シンガーになる夢より、パンクに抱いていた思いより、何かとんでもなく奥の方にある歌力(うたぢから?)みたいなものにヤラれちゃった放心。そう、「上を向いて歩こう」という曲のとてつもないポテンシャルを思い知らされたということともうひとつ、やっぱ歌ってスゲーというのがこの日の収穫。人間が自分の生きている感触を得る道筋の上に、この日のこの曲はあまりにも自然に横たわって、あまりにも自然に我々をその感触の方へと導いていったのです。
 曲だから作りもの。誰かが作らなければこの世には現れなかったその作りものの成せる力に、僕はもうしばらく取り憑かれて生きてゆくのだろうと自覚した去年の暮れの出来事でした。長々と失礼。

PS.「自由講」いいっすね、是非やりましょう。大丈夫かな。僕も法学部卒なのに分かりましぇん!

2003.09.01[22:03] 年金を真面目に考える いとうせいこう
 まったくね。俺は一応払ってますけど、年金に関しての明確な見通しは冷静に報告して欲しいと思うよ、実際。
 どう考えても破綻する、もしくはすでにしている。とすれば何のために払うのかのモチベーションがなくなっても当然なわけで、それが「あなたのためですよ」という言葉でなんとかごまかせると思ってるのはあまりに不合理だ。いや、不条理だ。
 こっちはフリーですからね。会社が生活を守ってくれるわけじゃない。そのへんのズレが大きいんだよね。国家とフリーランスの間の感覚のズレ。
 だけど、いまやどんな大会社に属してる人でも、半ばフリーランス同様だからなあ。一億総フリーランス。だからこそ年金への危惧や不満があからさまに噴出してきている。つまり、国民と国家がズレちゃってるわけで、このネジレにはほんとに不条理なものがある。じゃ、国民とズレている国家って何だ?ということですからね。国民国家なのに、所属する者と所属しているものの間にはっきりとしたネジレがあるなんて……ならば国家を形成している人たちとは何なのだということにもなる。誰が国家を代表しているのか、いやむしろ誰が代表されているのか。
 ……ええと、そういうコラムじゃないんだよね、ここは。だけど、この年金の問題は国家とは何かということを考える上で最もクリティカル、決定的でしかも実感のある事柄なのでした。
 ここは「講」を作るしかないね、実際的には。ねずみ講は困るけど、民間で勝手に契約を交わして金を貯めあう。そして、働けなくなったら一部を受け取る。かつては保険がこの制度を代行してたわけだろうけど、もはや信用出来ないからなあ。
 いっちょやるかい? フリーランスに呼びかけての「講」作り。捕まるのかな、そういうのは。俺、法学部出身だけど全然わからない。だけど、社会運動としてもこれはあり得るよ。静かな国家批判、いや批判しなくてもいい、静かな自給自足運動。
 けっこう乗ってくるやつはいると思う。あー、いいかも。フリーランスは自らを扶けよ。「自由講」。
 俺は入るね。桜井も積み立てようぜ。
 

<< 先月の書き込み 翌月の書き込み >>
Copyright (C) 2003 Sony Music Artists Inc. All Rights Reserved.
[email protected]