2003.08.25[18:57] 将来に安心など無い! 桜井秀俊
 国民年金を払っていない。いいのかなー犯罪じゃないのかなーと思いつつも、聞くところによると僕の世代以降は積み立てても絶対に戻ってこないらしいので、そんなん嫌だなーと思ってるうちにもう十数年。

 催促の手紙によると「国のすることなので安心です」と。するのが国だとどうして安心と言い切れるのか、それがよくわからんのです。“国だから安心!”と言いたいけどそうは思えないのは僕が国を信用していないという事か。だとしたらそれは悲しい。俺だって国を信用したい。

 「親のやることだから従え!」と正直に言ってくれればこちらも「はい!」と従いますよ。税金は義務!ヘンなのもあるけど色々大変なんだからとりあえず払え!みたいな態度でやってくれれば、ブツブツ言いつつ子供としてはついてきますよ。でも、催促の手紙で殊更に強調されるのは「あなたの未来の為だから」。世間であれだけボロクソに言われてもまだ“あなたの為…”なんて言える神経には、気持ちが悪くなるのが人というもの。ましてわざわざ払いに出かける気になんて…。

 ところが先月、地下鉄にもの凄いポスターが。画面中央では江角マキコさんが‘ショムニ’よろしくこちらをぐっと睨みつけている。横には、正確なところは忘れちゃったけど「自分勝手は許さないわ!国民年金払いなさい!」といった文句が。びっくりしてのけぞってしまいました。昨日まで「あなたの未来の為、国が安心の年金を…」なんつってたのが一転、「勝手ばっか言ってんじゃねえ、とっとと払え!」だなんて。なんて絵に描いたような逆ギレなんだ。記念に一枚欲しかったんだけど、もう無くなっちゃった、そのポスター。見知らぬ同好の士が盗んだのか。江角さんというキャスティングがね、絶妙。

 何やらそのうち、俺のような未払い人間の個人口座から、自動的に国民年金を引き落としちゃうシステムを導入するとかしないとか。やるな竹中さん、荒っぽくて嫌いじゃないぜ。でもこんな無茶苦茶な制度、将来どんな手でケリつけるんでしょうか。生きてるうちに徳政令が見られるかも。

 またひとつ、老後が楽しみになった。

2003.08.24[17:33] 南の島の校庭の話 いとうせいこう
 わかるなあ、そのロケンロールの凄み。

 物書きでもさ、なんの構成もなくスラスラッと遊びで書いてるような達人の軽みってあるもん。

 ま、それがきわめて日本的な私小説、あるいは随筆というジャンルになっているほどで、ただし俺もたぶん桜井くん同様、そうした対象を凄いとは思いながらも自分の進むべき方向じゃないだろうと感じる、つまり複雑な感情を持っているのです。

 作為のなさっていうのかな。自然(じねん)という観念。しかし、結局は作り物をやってる以上、まったく作為がないというのは嘘なわけで、それもずるいじゃんと俺は思う。大好きなのに反発しちゃう。反発しながら、では思いきり作為的な作り物を追求しながら作為という力が抜けているものとは何か……と僕もこの十年ばかり考えてきましたよ。

 だからこそ、スライドショーという全面的にアドリブの舞台をやったり、ジャズのアドリブの構造をそもそも日本の喜劇アチャラカは持っていたのだと主張して、そういう舞台をやったりさ。つまりそれが、自分なりのロケンロール。

 このテーマはあまりに深いので、またおいおい詰めていくことにして、ここでは俺のロケンロール体験を書きますわ。

 前に那覇の空港前で偶然、ほんとに偶然、俺たち会ってるよね。

 あのとき俺は若者数名と一緒だったでしょ? あれはね、ほとんどバックパックみたいな旅行の帰りだったんです。若者諸君に誘われて、安い旅費で伊平屋という島まで足を伸ばしていた。

 この島にね、連れの若者ミュージシャンたちが「おにいちゃん」と呼ぶ人がいたんだな。体が大きくて、人のよさそうな笑顔を持っていて、漁師なのでそれはそれはいい色に焼けている素朴な人です。俺よりいくつか年上の男。若者はこの「おにいちゃん」を慕って毎年のように伊平屋に行ってる。

 でさ、島に着いた日だったか、夢みたいなものを俺は見たんだよ。まず、若者と「おにいちゃん」が中学校の校舎に集合する。その校舎は新しくて、しかも島の高台の上にあり、なんと校庭の端は天を突くような巨岩にさえぎられていたのをよく覚えていますよ。つまり、夜の校庭にいると、巨岩を見上げる以外には空の星しか目に入らない。幻想的でしょ?

「おにいちゃん」はどこから持ってきたのか、カギで部室を開けちゃうんだな。さすがは南の島の自由さだよね。

 するとそこにはドラムセットがあり、アンプがあった。若者たちは持ってきたギターとベースをアンプにつなぐ。そこで「おにいちゃん」も自分のギターを取り出すんだよ。それも一年使ってないから弦が錆びちゃってるギター。

 ところが、セッションが始まると、その錆びたギターから凄いブルースが聞えるんだな。「おにいちゃん」の太い指はフレットをまともに押さえているようには見えない。にもかかわらず、なんとも知れないフレーズが奏でられる。若者たちはその音聞きたさに島に通ってたってわけです。

 俺は幻想的な校庭の風景を眺めながら、「おにいちゃん」の奇跡的なギターサウンドに酔いしれた。なんでも以前はほら、紫とかコンディショングリーンとか沖縄のロックバンドがあった時代、「おにいちゃん」も米軍関係のバーなんかでギターを弾いてたらしいんだよ。だから、筋金入りなんだよね。それが楽しみのためだけに弾く夏の夜のギター。下手すりゃネックも反っちゃってるようなそのギターが、高台にある新校舎から伊平屋に響き渡る。ロケンロールだったよ、あれは。今も忘れないもん、俺。

 翌日は「おにいちゃん」が漁師仲間に言ってくれて、小さなボートを借りて海に出た。四階建てくらいの高さの小山が海中にいくつもあって、それが全部色とりどりのサンゴだったのには驚いたな。なんてことだ、こんな美しい島で昨日の夜、ロケンロール・パーティがあったのかよって感じ。 

 それだけなんだけどね、話は。で、数日後、帰りに桜井君に会ったんだよ、偶然に。

 ただ、これはまさに作為のない演奏の話だよね。金を取ってやってるライブじゃないわけだから。

 とすると、と俺は思ったりする。あの複雑な感情は、発表を前提としてしか物を作らない自分に起こることなわけで、そこから離れて何かに熱中してる時、自分は自由なんだなと。そこでは俺も素直にロケンロール出来る可能性があるんだ、と。まあ、そう考えるんですよ。

 でね、そのロケンロールから帰ってきて、ある程度の作為の中でまたもがけば面白いんじゃないか。

 あるいは、チャックベリーが凄いのは、きっとしょちゅう“夜の校庭”みたいなところで誰にも聞かせずにロケンロールしてるからなんじゃないか、と。

 俺たちにも“夜の校庭”が必要なんじゃないか。っていうか、俺たちみたいなタイプにこそ、ほんとは“夜の校庭”での真剣な遊びが必要なんだよ。俺はそう思いますね。

 長くなったけど、ま、そんなことだ。

 今日も読み返さずに一気に書きましたよ。

2003.08.19[17:49] 凄すぎて笑うしかなくて 桜井秀俊
 ロックンロールの答えを見てしまった。
 去る8月7日、赤坂ブリッツにて目撃したゴッドファーザー・オブ・R&R、まさにR&Rの生みの親、チャック・ベリーのライブ、というよりチャック・ベリーそのもの、それはもうミもフタもなくロックンロールでありました。
 ロックンロールの極意とはすなわち、ゴキゲン状態を貫き通す事と見たり。
 それは音楽を凌駕する。事実、本当の事言っちゃうと、お父さんは全くギターが弾けなくなっておりました(ノドは絶品!)。弾けてないって、本っ当に左手が行っちゃいけない場所にばっかり行ってるし、バンドは何だかその辺のオールディーズパブから連れてきたインチキ外人ハコバンっぽくてユルユルだし、全ての曲はテキトーに始まってヌルッと終わるし……。一般的に言って、あくまでも一般的に言ってしまえば、それはそれはひどいもんでした。しかしながら、何故だか全ては非常にゴキゲンだったのです。
 赤いスパンコールのシャツに船長さんの帽子、まるで昭和の上方漫才の大師匠のようないでたちがゴキゲン。演奏ズルズルでも自信たっぷりでゴキゲン。変な音出したの自覚しても反省する様子がなくてゴキゲン。金にはうるさそうでゴキゲン。もう、髪の毛から爪先まで、後光も含めてロックンロールとしか言いようが無い!そりゃそうだ、だって彼が発明したんだもの。お父さんはロックンロールを作って、ロックンロールを追い越してしまった、そんな感じだ。音階だのアンサンブルだの細かいこと言うな!いつ何時誰の前でもゴキゲンであれ!それがロックンロールのすべてなのさ!
 あれからもう二週間、チャックの毒はまだこの体にくすぶっていて抜けきらない。ギターをチューニングするだけで「何をちまちまやっているんだボーイ、ギターなんてパッと背負ってガン!と弾けばいいのさ」なんて諭すお父さんの声が聞こえてきて、自分のつまらなさを思い知らされるのです。でもやっぱりチューニングはね…。一応しとこうね…俺。
 ロックンロールの神様は、根が真面目な奴には厳しそうだ。

2003.08.06[15:25] 引っ越しなさい いとうせいこう
 こないだ俺の家に隅田川の花火を見に来た桜井の浴衣姿は、数年前よりよほどよかった。網の柄の渋い茶の浴衣。なにしろ浅草の観音様は川から網で上げられたわけで、氏子は今も網の柄を使いますよ。そういう意味でも、あの選択はアカ抜けてた。ただ、ちょっと大きめだったから、あれは身幅を詰めるともっといい。
 おそらく、「まだ太る」という確信があったんでしょうな。ゆえに大きめを買った。無意識はなんでも知っておるのですよ。いくら頭で戦ったところで、体は太らんとしている。
 俺は三十代中盤の頃、本気で着物を着こなしたくてわざと太りました。日々浴衣を着て寝ていたので、少しでも腹が出るとすぐわかった。「あ、帯が決まった!」とか「あーあ、また痩せちゃったよ、かっこが付かねえ」とか、体重計に乗らずとも帯の決まり方で自分の体の具合を計っていたのです。
 お祭りなんかで裸の男たちを見てても、腹が出てない大人なんてみっともないと思う。いくら暴れん坊の若者でも、腹の出てる大人にはやっぱかなわない。たぶんパンチの重さが違うんだよね。基本的に最もケンカ強い時期って、四十前後じゃないかとさえ俺は思っているのです。だってほんとに体が違うぜ。切れ味鋭い若者の蹴りなんか、大人は腹で止めちゃうに決まってる。脂の乗った時期ってそういう年代を指すんだよ、絶対。いやほんとに。むしろ俺は妙に脂肪の少ない若者の体の方がかっこ悪いと思うけどなあ。
 来年の三社祭には奥様同伴でいらっしゃればどうでしょう。町は着物の男、裸にふんどしに袢纏といった姿の男たちでにぎわってますよ。そうすると一目瞭然なんだな。いい年して腹も出てないようなヒヨッ子がどれほど弱そうに見え、道の中央を人に譲って端を歩かざるを得ないかが。なんつーか、ただ筋肉が締まってるってだけじゃ貧乏くさくて話にならんのですよ。もし痩せてるんなら、それ以上の凄みを出せないとやってられない。
 腹が出てる出てないという基準は、祭りのなくなった都市部での洗脳。おかげでいい大人はみるみるうちに消えてるじゃないですか。恰幅のいい大人がいなくなり、どいつもこいつも貧乏くさい若者気取りってわけさ。流行の浴衣姿を見てごらんよ。帯を決める腹がないからバカボン的に帯がずりあがってる。かっこ悪いぜ。いかんぜ、あれは。第一、腰が冷えて力が出んよ、君。
 要するに、腹が出たら出てもいい地域に引っ越す。これが基本だよ。
 そして「これでいいのだ!」と言い張るのさ。
 それこそが男の意気地じゃないか。
 腹を引っ込める苦労なんか即座にやめて、今すぐ俺の家の近くに越したまえ。
 
 
 

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