KEY

KEY

ナチュラル ハイ

DFCL-1230/アルバム/2006.1.25/¥3,059(税込)


〜ライナーノーツ〜

音楽評論家でもない一介の雑誌編集者が、しかも根っからのロック好きなオヤジがこんなことを言うのは気がひけるのだが、ポップスとは「人の心を明るく照らすもの」だと思う。具体的には、それを耳にしたとき、または口ずさむことで、楽しくなったり優しくなれたり癒されたり。悲しい出来事を優しい思い出に変えてくれることもあれば、忘れがちな大切な人を思い出させてくれることも。これから始まる一日に希望を与え、未来の自分へ送るエールとして胸に刻むこともできる。なんか良いこと尽くしじゃないか。

でも、想像してみて欲しい。自分以外の誰かをそんな気持ちにさせることが、どれほどエネルギーの要る行為であるかということを。音楽、というツール以外にいろんな方法でその行為は成立するんだろうけど、歌すら人前で上手く唄えない自分にしてみれば、誰かの心を照らす行為が如何に困難かつ労力の要るものであるかは、想像するまでもないことだったりする。ふさぎ込んでる人、傷ついて立ち直れない人、疲れきって不機嫌極まりない人、そんな人たちに自分が出来ることってどれだけあるんだ?ってことだ。

つまり、ポップスを演る、ということはその軽やかでカジュアルなイメージとは裏腹に、とんでもなくエネルギーの要る行為なんだと思う。偏執狂的に、マッドサイエンティストばりに、明るく照らす光を創出するために魂を削る日々なんじゃないのか?って、想像してしまうのだ。

今から8年前、カオルコとユウの2人は、ポップス人の心を明るく照らす--がやりたくてナチュラル ハイを始めた。でも、当時の2人にはポップスをやる、ということが何なのか、そこらへんの自覚はまったくなかった。というか、デビュー以降もそのことに気づかぬまま無我夢中に突っ走っていた。

音大出身、温室育ち、広い庭付きの大きな邸宅には物心つく以前からピアノがあり、飼い猫のようにクラシックと戯れる生活……実際の彼女らがそんな生活を送っていた訳ではないけれど、初めてナチュラル ハイの音に触れたときの印象はそんな感じだった。デビュー曲「LIFE」の、クールなストリングスによるアレンジに負けない軽やかに弾むピアノと歌。親元を離れた都会での生活に寂しさと疲労感をおぼえながらも、それらを昂然と無視するように自分に活を入れる女性を描く歌詞。プライド高そー。それはまるで、身にまとったブランド品に負けない高貴な女性のたたずまい……って、自分で書いてて笑っちゃうぐらい大げさだけど。まぁそんな異国の人と出会ったような感じがしつつ、そこに興味がそそられたわけだ。

初めて会ったときから、彼女たちは穢れもなければヨコシマな気持ちもない2人だった。ピュアで、聡明で、生真面目で。人を疑うことも知らない真っすぐさ。それはとてもキラキラしてて眩しかったし、見ているこっちが照れてしまうほど。でも、何かを内側に抱え込んだままだった。それを解放したくて仕方がないのに、その術を知らずにもがいているようだった。つまり、ナチュラル ハイの歩みとは、2人が抱えこんでいたものをいかにして解放するかの道のりでもあったのだ。

しかも、デビューを機にまず解放されたのは本人たちではなくインディーズ時代に生まれた曲たちだった。前述した「LIFE」に始まり、「LAH LAH LAH」を経て、ファースト・アルバム『色彩カルテ』へ。雌伏時代の苦労や努力が実を結んだのは確かだが、自己解放とはほど遠い場所に立ちつくしていた。そして、わかっちゃいなかった。ナチュラル ハイが奏でるポップスが何なのか、ということを──。自分が歌を唄う理由はどこにあるのか、ピアノが自分にとってなぜ大切な存在なのか、私はなぜここに居るのか--。

2005年、「覚醒の春」というテーマを掲げてナチュラル ハイの第二章がスタートした。初のセルフプロデュース曲「プロローグ/だから、私は歌う」は、カオルコとユウの各々が自分自身と向き合うことで生まれた曲だ。2人は寄り添いながらここまで歩いてきたけど、次の段階へ向かうためには「個の自分」としてナチュラル ハイとの関わりを考えなければならなかった。なぜ歌を唄っているのか。なぜピアノとともに生きているのか。そんな当たり前に思っていたことと改めて対峙したところからこの曲が生まれ、セカンド・アルバムに向けて2人の意識は覚醒していく。

歌い手として、さらにはカオルコに対して抱いていたコンプレックスを正直にぶちまけたユウ。何事も常に受け身で、自分の気持ちを素直に表現できずにいたカオルコ。育ちの良さなのか持って生まれた性格なのか、エゴイスティックに自分を解放することを知らなかった2人が、「それじゃ音楽やってる意味ないじゃん!」と自らを奮い立たせ、自己解放を目指し作られたアルバムがこの『KEY』だ。BLACK BOTTOM BRASS BANDとの競演に始まり、SOIL&"PIMP"SESSIONSのキーボーディスト・丈青や話題のギタリスト・saigenjiとのセッションと、積極的に人との関わり合いを求め、ワガママに大胆に自分の欲求に向かって周囲を巻き込んでいく。そう、そのテンションだ! 僕がずっと2人に求めていたものは。もっと好き勝手していいんだ。後ろ指さされようが、独りよがりだと言われようが、塞ぎ込んでた自分を解放するんだ。ここには、そんな振り切ったテンションの中、2人が今だかつて見せたことのない解放感に満ちたプリミティブな衝動がある。人の顔色なんて気にしない。貪欲に愛するものを求め、そのままの自分を伝えることで、抱え込んでいたものはクリアになる。それこそポップスの成せる技。塞ぎ込みがちで胸の内にしまいこんでしまう日陰の部分に、2人は明るい光を照らしはじめたのだ。カオルコもユウももう分かっている。なぜ音楽をやっているのか、なぜここに自分がいるのかを。だって、「NO PIANO NO LIFE」の中でこう歌っているのだから。

「あの頃から 変わらない気持ちで」
「あの頃より 確かな気持ちで」

自分たちが抱え込んでいたものに、強烈なサーチライトで心を明るく照らすもの、それがナチュラル ハイのポップスだ。その光量はキラキラではなくギラギラ。ポップスだからって気軽に聴けない。コンビニ感覚で手に取るもんでもない。腹を括って聴かなきゃついていけない。このハイテンション──ナチュラル ハイ──が生んだ自由奔放なポップスこそ、今の時代を自分らしく生きるための「鍵」なのだ。

「音楽と人」樋口靖幸